「晴信、そなたには周囲に対する目配りと細かい気遣いがあり、他の方には見えていない事柄が見えているのではありませぬか。何よりも思慮深く、物事に対して冷静に対処でき、家臣の方々もそのことをわかり始めていると思います」 「姉上……」 「父上様は御気性の激しい方ゆえ、そなたに武田家の嫡男としての比類なき強さをお求めになり、誰よりも厳しく接しておられるのでありましょう。されど、そなたには強さだけでない別の素養があるのだと、必ずわかってくださりまする。その日が来るまで辛抱を忘れずにいれば、きっと報われまする」 「……肝に銘じ、精進いたしまする」 「それと、もうひとつだけ。次郎と孫六をお願いします。何があろうとも、決して仲違(なかたが)いなどせず、力を合わせて母上様を守ってくだされ。わたくしは武田家と今川家が誼(よしみ)を通じるための鎹(かすがい)として陰からお支えいたしまする」 「わかりました。姉上、くれぐれも息災で」 「重ねて、ありがとう、晴信」 二人は残りわずかな別れの時を惜しんだ。 輿の先には、花嫁を迎えに出てきた今川勢の姿があった。 その先頭に見覚えのある顔を見つけ、信方は今川方の武将に歩み寄る。 「やはり、そなたが警固の任につかれておりましたか、板垣駿河守殿」 歓迎の笑みを浮かべ、太原雪斎が近づく。 剃髪(ていはつ)の僧体であった頃から時が経ち、すっかり侍烏帽子(さむらいえぼし)の似合う軍師の姿となっている。 「お久しゅうござる、雪斎殿。その節は、お世話になりました」 「いえいえ、こちらこそ。そなたがおられるということは、御寮殿の処(ところ)におられるのが、噂の若君にござりまするか?」 「噂の……。それは、いかなる類の風聞でござるか?」 信方は微(かす)かに眉をひそめながら聞き返す。 「初陣において、自ら殿軍(しんがり)を御所望なされ、しかも、その一軍にて敵城を攻め落としたと、もっぱらの評判になっておりますが、違いましたか」 太原雪斎が笑みを絶やさずに答えた。 「確かに、相違ありませぬが。……さような話が駿府にも広がっていると?」 「ええ、駿河だけでなく、近隣の諸国に聞こえておりましょう。盟友の御嫡男が頼もしい戦(いくさ)働きをなされたと、当家においても賞賛の声が広がっておりまする。やはり、武田家との盟約は間違っておらなんだと」 「さようにござるか……」 信方もぎこちない笑顔をつくる。 ――耳の早い漢(おとこ)だ。われらの動きを含め、武田の内情はすべて摑んでいるということか。