「駿河守殿。近いうちに、互いの御主君を交えて酒でも酌みかわしとうござるな。是非、駿府へお越しいただきたいものだ。いずれは、義元様とそちらの若君が誼を通じる代(よ)となるのだから、お逢いするのは早い方がよい。さように思いませぬか」 「それは嬉しいお申し出であるが、少々、気が早うござる。わが御屋形(おやかた)様はまだまだ代替わりなど考えておられませぬ。だいぶ先のことになるかと」 困ったような顔で、信方が取り繕う。 「ああ、なるほど。信虎様は信濃(しなの)を切り取りに行かれるのでありましたな。それが済むまでは、確かに時がかかりましょう」 「……まあ、さような次第で」 「では、それまで、われらだけでもしっかりと意を通じておきたいものだ。岐秀(ぎしゅう)ならば、甲斐と駿府の行き来もできますゆえ、内々の話があれば、かの者を遣いに出していただくのがよいかもしれぬ」 太原雪斎は臨済宗の後輩である岐秀元伯(げんぱく)の名をあげる。 「岐秀禅師にござるか。わかりました」 信方が頷く。 岐秀元伯は晴信の導師でもあった。 「では、御請取渡しの儀を始めまするか。よろしくお願いいたしまする」 太原雪斎は一礼してから踵(きびす)を返す。 しかし、数歩進んだところで、何かを思い出したように振り向く。 「ひとつ、お願いしたい事柄を思い出しました。もしも、駿河から武田家に仕えたいと願う者がおりましたら、それがしにお知らせいただけませぬか。まだ玄広(げんこう)恵探(えたん)殿の残党がいるやもしれず、さような者たちが甲斐へ紛れ込み、せっかくの和を乱すことになってはつまりませぬゆえ」 「わかりました。さような申し入れがありましたならば、岐秀禅師を通じてお知らせいたしましょう」 「助かりまする」 「では、姫様の輿を前に出しましょう」 信方は請取渡しの儀を行うために塗輿の方へ戻る。 ――盟約に乗じて駿河の国人衆が鞍替(くらが)えすることを警戒しているということか。用心深い漢だ。敵に回すと、厄介な相手となるであろうな。 改めて、太原雪斎という今川の軍師を見直していた。 こうして甲斐と駿河の国境で無事に請取渡しの儀が済み、恵姫は今川義元に輿入れしたのである。