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連載
新 戦国太平記 信玄
第一章 初陣立志2 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

   一 (承前)

「余はな、武田一門と甲斐を守るためならば、身内を殺(あや)めることさえ厭(いと)わぬ」
 武田信虎(のぶとら)は何の外連(けれん)もなく、無情な声で言った。
「されど、勝千代(かつちよ)。そちが武田の惣領(そうりょう)を嗣(つ)がねばならなくなった時、もしも次郎が己に叛(そむ)いたならば、躊躇(ためら)いなく斬ることができるか?」
 父の冷酷な問いに、太郎は息を呑み、軆(からだ)を凍りつかせる。
 さすがの重臣たちも難しい表情で黙り込み、推移を見守っていた。
『できまする!』
 眦(まなじり)を決し、そう答えるべきだった。
 父の興を買うためならば、何も考えず、そのように即答した方がよいことはわかっている。わかってはいたが、隣にいる弟のことを考えると、心がわなないて声が出ない。
『できまする! 必要とあらば!』
 それらの言葉が何度も脳裡でこだまする。しかし、太郎は最後まで口にすることができなかった。
 その代わりに、見開いた太郎の両眼から再び大粒の泪(なみだ)がこぼれ落ちる。止めようとすればするほど、それは流れ続けた。
「ふん。やはり、できぬか。口先坊主の受け売りで君主の徳を口にする、うぬの覚悟など、所詮、その程度のものだということだ。哭(な)いているだけで一門の惣領が務まるならば、誰も苦労はせぬ」
 信虎は興醒めした面持ちで言葉を続けた。
「余が武田を嗣がねばならなくなった齢(よわい)十四の時、父の信縄(のぶつな)が死の直前まで戦っていたのは、わが祖父と叔父の油川(あぶらかわ)信恵(のぶよし)だ。つまり、わが父は腹違いの弟に叛かれ、実の父がその後盾となっていたのだ。わが祖父、信昌(のぶまさ)が父に家督を譲ったにもかかわらず、気まぐれを起こしたせいで、一門は真っ二つに割れ、親族や重臣たちまでが父に叛き、甲斐の国内は血で血を洗う争いとなった。それだけではなく、甲斐の内訌(ないこう)を嘲笑い、周辺の諸国からも餓狼の如き他家が押し寄せ、名門であったはずの武田は断絶寸前であった。禍(わざわ)いの種となった祖父の寿命は尽きたが、叛いた弟を討ち果たせぬまま、わが父は失意のうちに病没した。余が惣領を嗣いだのは、まさにさような時だった。まだ虎の字を纏うてはおらず、信直(のぶなお)という名であったがな。勝千代、ちょうど、そちと同じ位の年頃だ。周囲には叛いた者こそ多けれど、真の味方がどれほどいるのかはわからなかった」
 淡々とした口調で武田家の暗黒を語りながら大盃を呷(あお)る。
「そこで、余は考えた。これから、どうすればよいのか、と。答えは存外、たやすく出たぞ。叔父の油川を討ち取ればよいだけだと。ついでに荷担した者どもを、まとめて根絶やしにしてしまえばいい。なにゆえ、さほど簡単に答えが出たと思うか」
 酷薄な笑みを浮かべた信虎の双眸が、異彩を放って煌(きら)めく。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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