連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志2 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「黒石は見事に生きましたが、白石は外に対して立派な壁となっておりまする。囲碁ではこれを厚みと申しますが、その厚みを生かすためには、黒石を誘い込んで攻めるか、黒石が入ってこられぬように反対側に同じような厚みを持たねばなりませぬ。あわよくば相手が気づく前に四方の厚みを創り、これを城壁の如く、しっかりと繋げばよろしい。そのために必要なことがありまする。それが何であるか、おわかりになりますか?」
「……相手に小さく生きてもらうこと」
「そのためには?」
「……わかりませぬ」
「相手を忙しくさせること、にござりまする。まずは急戦につぐ急戦に巻き込めばよろしい。されど、それは相手の眼を攪乱したり、混乱させたりするためだけではありませぬ。己も忙しくなり、策が破綻する危険をはらみますが、狙いを持って動けば、多少の犠牲は出ても目的を果たすことができまする。石の死活がかかった忙しい戦いを、囲碁では急場と申しまする。拙僧は三カ所で急場を創り、戦いにつぐ戦いの中で太郎様の石、つまり敵兵を隅の小さな陣地へ誘導いたしました。急場においては、非常に重要な鉄則がありまする。それは、すべての石、つまり自兵や民を救うことはできぬということにござりまする。ならば、犠牲を最小限に抑え、最大の利を得られる策を敢行するしかありませぬ。それを立案するのに孫子の五危などが役に立つのではありませぬか」
「なるほど!」
 太郎と信方が同時に膝を打つ。
「されど、その犠牲も戦いに勝たねば、犬死(いぬじに)にござりまする。勝負は終わってみるまでわからぬと申しますが、勝つための狙いは最初から持っておかねばなりませぬ。この対局における拙僧の狙いは、四方に城壁の如き白石の厚みを打ち立てること。このように」
 岐秀禅師は再び恐るべき疾さで白黒の石を並べ始める。
 ――凄い! 御老師はこの身が打った石の位置まで、すべて覚えておられるのか!
 太郎は眼を見張る。
 ――手練の碁打ちは、己の対局をすべて覚えており、相手の手順まで含めて碁盤上で棋譜を再現できるというが、まさにそれではないか。この老師、只者ではない!
 信方も度肝を抜かれていた。
 瞬く間に四隅の小さな黒石の陣と、それを圧迫するような白石の壁が四方に築かれる。天元に白石を置く前に手を止め、岐秀禅師が訊く。
「急場の中でいくつもの選択があったと存じますが、やはり最初に教わった『四隅取られて碁を打つな』という格言は重うござりましたか?」
「あ、はい……」
「そうした格言を逆手に取ることも策のひとつにござりまする」
「思い知りました」
「ここまでくれば、拙僧が最初に持った狙いがはっきりと形でわかると思いまする。されど、これはあくまで脳裡で描いていた図。途中で相手に悟られれば、かようにうまくはいきませぬ。それでも、この大きな図を描くことが重要にござりまする。囲碁では、これを大局と申しまする。大局を脳裡で描ける能が、大局観にござりまする。大局にも鉄則がござり、それはできるだけ碁盤全体に構想を広げ、できるだけ打った石を生かし、効率よく働かせること。つまり、石が向かうべき方向、兵や民が動くべき方向をひとつにし、導いてやることにござりまする。何やら、先ほどの急場の鉄則とは正反対のように思えませぬか」
 その言葉で、太郎は何かに気づく。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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