二 哀しみは、いつも北颪(きたおろし)の中にある。 ――この場所に来ると、それが見えるような心持ちになってしまう。 要害山城(ようがいやまじょう)の櫓(やぐら)へ上った太郎は、眼下に広がる新府を眺めながら瞳を潤ませた。 ――なにゆえ、ここで空風(からかぜ)に吹かれると己の哀しみが見えるような気になるのだろうか。……わからない。 春先の薫風に吹かれても、そんなことを感じないのだが、冬の乾いた風の中に混じる冷たく透き通った匂いが、いつも言葉にならない寂寥(せきりょう)を呼び覚ます。そして、風景の中に揺蕩(たゆた)う哀愁は、記憶の底のさらに奥深くから滲み出てくるような感覚があった。 ――しかも、哀しみだけではなく、まるで生まれぬ先に見ていた風景のような懐かしさも感じる。ここに居ると哀しみは増すが、館で塞ぎ込んでいる時よりも、少しだけ心が落ち着いてくるから不思議だ。以前、母上と一緒に来たあの日から、ずっとそう感じ続けている。 太郎が齢七になった年の生まれ月に、一度だけ母親とここへ上ったことがある。大井の方が積翠寺(せきすいじ)にお参りをし、産湯(うぶゆ)に使った温泉を見てみたいと願ったからだ。 最後に要害山城へ来て、二人で櫓から景色を眺めた。 その時の母の横顔が、未だに忘れられない。いや、生涯忘れようのない表情だったかもしれない。 ――母上は微かな笑みを浮かべておられたが、白い頬には拭いきれない物悲しさが張りつき、その瞳は新府の遥か先に向けられていた。もしかすると、あれは母上の故郷があった方角かもしれない。おそらく、この身が生まれる前も、同じように遠くを眺めておられたのであろう。 幼心でそんなことを感じながら、太郎は繋いだ母の手を固く握り締めた。母の魂が北颪に運ばれ、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたからである。 ――ここは母上にとって特別の場所なのだ。そして、この身にとっても……。 太郎は掌の温もりを逃すまいとしながら想っていた。 実際、北颪が吹き始めた季節に、太郎はこの要害山で生まれている。 それを考えると、大井の方がこの景色を眺めていた時の心許なさを同じように胎内で感じていたとしてもおかしくはない。まさに生まれぬ先の懐かしい場所だった。 感情的になりすぎている太郎に肩を並べ、板垣信方が声をかける。 「若、やはり、この城から眺める新府は整然としており、美しゅうござりまするな」 「美しい……。そなたもここが好きなのか?」 「好きというよりも、それがしにとっては特別の場所にござりまする。若がお生まれになったということも含めて」 「さようか……」 太郎は躑躅ヶ崎(つつじがさき)館に視線を移しながら呟く。 「……父上もここへお出ましになることはあるのだろうか」 「この城を普請なされた時には、間違いなく、お出でになりましたかと。されど、一門の惣領が本拠の詰城(つめのしろ)に入るということには、特異な意味がござりまする。それは決して吉事ではありませぬ。御屋形様がここへ参られぬということこそが、武田一門にとっては吉兆にござりまする」 「確かに……。愚問であったな。かような様だから、父上にきついお叱りを受けてしまうのであろうな……」 自嘲をこめて呟いた太郎の横顔を、信方はそれとなく窺う。。