連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志2 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 殺すとは過激な表現であるが、囲碁では相手の石を奪ってしまうことを意味する。己の石で囲んだ陣は、眼と呼ばれる空白の数で広さが決められ、その眼が最低でも二つなければ、自陣として成立しないという決まりになっていた。
 つまり、二眼のない陣が相手の石に囲まれれば、己の石がどれだけ連なっていても、相手に奪(と)られてしまう。すなわち全滅である。
 相手に召し上げられた石は「揚浜(あげはま)」と呼ばれ、いわば敵の捕虜となり、そこに開いた空白、つまり眼がそのまま敵陣となる。自兵が全滅し、そこが相手の陣となるのだから、当然のことながら敵の得た利は自陣と思っていた石数の分となり、出入りの計算は倍の損になってしまう。
 逆に、敵の石を殺し損ねれば、敵陣の中に打ち込んだ己の石が揚浜、すなわち敵の利となる。これは持ち込みと呼ばれ、時には接戦の勝敗を左右した。
 囲碁において石の死活が難しいというのは、そのような意味においてだった。
 岐秀禅師の急襲により、局面は一気に緊迫し、これまでとはまったく様相が変わる。
 太郎もそのことは重々承知していた。
 ――おそらく、これは隅の死活に関わる一手であり、己の応手が試されているのだ。間違えれば、敗着になることもあり得る。もしかすると、御老師は「問いかけに対する返答の選択」について、何か投げかけをされておられるのだろうか。
 盤面を睨みながら、太郎の耳朶(みみたぶ)が赤くなる。
 ――若、正念場にござる! 性根を据え、相手の石を殺し返すぐらいの気迫で一手を!
 信方も手に汗を握っていた。
 太郎の応手を確かめた岐秀禅師は、あいかわらず飄々と白石を置いていくが、そのことごとくが最強手ともいえる厳しい一打だった。
 ──とにかく、己の石が死なぬように。この黒石のひとつひとつが、わが兵の命だと思わなければならぬ。
 太郎は息を詰め、必死で考え抜いた応手を繰り出す。
 互いの石が軋みを立てるほどの競り合いが続き、太郎は何とか自陣の二眼を守り切った。
「ほう、生きましたか」
 岐秀禅師は柔和な笑みを浮かべながら、黒衣の袖を捲り上げる。
「ならば、これで」
 別の隅へ強硬な一打を打ち込む。
 今度は一隅だけでなく、残った隅にも次々と石を打ち込み、三カ所の隅で黒石を殺しにかかる。
 あちらの隅を打っているかと思えば、手前の隅に白石が飛んできて、太郎は息つく間もない。しまいには頭の中が混乱し始め、三隅すべてで互いの石を取り合う激しい乱戦となった。 
 信方の眼も廻るほどの急展開であり、一瞬、黒石の死活を見逃しそうになる。
 太郎は何度も両手で己の頬を叩きながら冷静になろうとするが、思考はどんどん加熱し、顔が紅潮していた。その分、混乱も増していく。
 四隅での激闘があらかた終わり、岐秀禅師は一息入れるように碁盤全体を見回す。太郎の黒石は四隅で二眼以上を確保し、全滅を免れている。しっかりと生き延びたのである。
 それを確認してから、岐秀禅師は、ぴしりと天元(てんげん)に白石を打ち込んだ。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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