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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志2 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 二人は愛駒を繋いである積翠寺へ下りる。
「若、せっかく、ここまで来ましたゆえ、涌湯(わきゆ)に浸かってから参りませぬか」
「えっ?」
「産湯を使うて以来、ここの湯に入っておらぬと存じまするが」
「それはそうだが……」
「悩みに凝り固まっている時は、のびのびと湯に浸かるのが、一番の養生にござりまする。ここの湯には、矢傷なども癒す特別の効能もありまする。どうか、お試しくだされ。元伯殿には遣いを出し、少し遅れそうだとお伝えすればよろしいかと」
「そなたは入ったことがあるのか?」
「若がお生まれになった翌日、心おきなく湯に浸かりにまいりました。熱さもちょうどよく気持ち良うござりましたな。それ以来、ちょくちょく。特に、夫婦喧嘩などして、むしゃくしゃした時、こっそりと入りに来ておりました」
 信方の言葉に、太郎は困った顔で笑う。
「裸でいるところを獣に襲われたりせぬのか」
「ええ、確かに寺の者が『山の野獣(のけもの)たちも湯に浸かりにくることがある』と申しておりました。おそらく、傷の養生などをしに来ているのでしょうから、鉢合わせしたとしても素知らぬ振りをしておれば、向こうも攻撃はしてきますまい。まさか臆しておられますのか?」
「臆したりは、しておらぬ。そなたが急に奇妙なことを言い出したから、戸惑うておるだけだ」
「まさか、漢(おとこ)同士の裸の付き合いが恥ずかしいなどと申されますまいな」
「何を申すか。そなたと川で水練をしたこともあるではないか」
「それは毛も生え揃うておらぬ童の時ではありませぬか。たかが湯浴み如きのことで、若が尻込みしておられると見受けましたゆえ、何か特別な訳があるのかな、と」
 信方が挑発する。まるで「やっと、下の毛が生え揃ったからではありませぬか」と言わんばかりの口調だった。
「別に、特別な訳など何もない!」
 太郎は怒ったように言い、そっぽを向いた。それから、傅役を置き去りにし、足早に厩(うまや)へ歩いていく。
 信方は小走りで追いつき、小さく頭を下げる。
「若、申し訳ござりませぬ。徒口(あだぐち)が過ぎました。少し莫迦(ばか)/\しいことでもなさり、ご気分を換えるのもよいかと思っただけにござりまする。ご堪忍くださりませ」
「それはわかっているつもりだ。そなたに余計な気を遣わせ、申し訳ないとも思うておる」
「若……」
「板垣、この鬱屈とした悩みのいくつかが解決したならば、晴れて二人で湯に浸かりにくるということでどうだろうか。心おきなく、のびのびと」
「御意のままに」
 信方は深々と頭を下げる。
「では、長禅寺へ参ろう」
 太郎は愛駒の手綱をほどき、鞍に跨がった。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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