連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志2 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 ――あっ!
 信方は思わず声を上げそうになり、すんでのところで、それを吞み込む。
 天元とは碁盤の中央に位置する星のことであり、まさに碁盤という世界において「天が元(はじ)まる」場所のことである。また同時に、天元は「天子」や「君主」を意味する唐語でもあった。
 よく見れば、太郎が築いた四隅の陣には、白石がびっしりと張り付き、まるで壁のようになっている。それが四方に広がり、天元の白石を中心に大きな空白を創っていた。まるで巨大な城壁に囲まれた領地のようだった。
 それに較べ、太郎の黒石は四隅に追いやられ、縮こまったように小さな陣地しか築けていない。どうやら、岐秀禅師は隅の黒石を攻めながら、実は天元に向かって防御の厚みを築いていたようである。
 碁盤の真中に白石を打ち込まれ、太郎は初めてそのことを悟った。これまでは四隅にばかり眼がいき、碁盤全体を大きく見渡せていなかったからだ。
 四隅取られて碁を打つな。
 これは古(いにしえ)から伝えられ、初心者にもまず最初に教えられる重要な格言だった。
 しかし、上手の碁打ちは、よくこんなことを言う。
 石を生かすだけならば簡単だ。されど、生きるだけでは、勝負にはならぬ。
 そこには「相手の攻め手に対し、言いなりになるが如く防御の手ばかりで応じていれば、青息吐息で小さな陣を守ることに終始し、勝負の大局を制することができなくなる」、そんな意味が含まれていた。
 そのため、攻められた方もどこかで肚を括り、相手の石を殺し返すような気迫の一手を放たなければならなくなるのだが、初心者は往々にして己が石の死活に対して眼が釘付けになり、反撃の機を逸してしまうことが多い。自兵を失うことだけを恐れ、すぐに逃げの籠城ばかり考える武将の如くである。
 太郎はいつのまにか上手の罠に引き込まれており、このまま終われば白石の陣が較べようもないほど大きく見える。それを悟り、信方は声を上げそうになってしまった。
 だが、まだ起死回生の手がないわけではなかった。
 周囲の石と離れた天元の白石に攻めかかり、その援軍となる白石を殺して中央に黒の陣を創ることができれば、勝負の行方はわからなくなる。広大な白の陣地と見えている空白地が黒陣となるので、逆転勝ちもあり得た。
 理屈はそうであっても、ぶ厚い白石に囲まれた中で二眼の陣を築くことは至難の業である。その自信がなければ、潔く敗北を認めて投了すべきだった。
 太郎は思わず信方の方に振り返る。
 ――どうすればよい?……じたばたせずに、ここで投了するか。それとも、一か八かの……。
 ほぼ負けが見えている局面で、後先を考えずに手を繰り出して暴れ廻るのは、決して行儀のよいことではない。
 上手同士の囲碁においては、それこそが軽蔑の対象となる。己の負けを認め、潔く投了することも実力のうちだった。



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〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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