「哭くな、次郎。童(わっぱ)は甘い物を食うて、ただ笑うておればよいのだ」 信虎は膝の上に座った次郎の目尻を直垂(ひたたれ)の袖で拭ってやる。 「そなたは、愛嬌があってよい。童は小賢しさを身に付けるより、愛嬌があって腕白な方がどれほどましか。そなたはな、兄と同じく余と御方の子だから、武田の名跡から出る必要もない。今の話は喩(たと)えゆえ、そなたが気に病むことはないのだぞ」 牡丹餅を手に取り、信虎は眼を潤ませた次男の口に運んでやる。 それを頬張りながら、次郎は小さく頷いた。 太郎は少し羨ましそうに大上座を見てから、すぐに視線を逸らした。 「かくいう余にも、腹違いの弟がおる。これがまた、よくできた弟で、こたびの宴席にも誘うたのだが、油断しやすい正月こそ小山田の残党や北条の侵攻があるやもしれぬと申し、東郡(ひがしごおり)の勝沼郷(かつぬまごう)で備えをしておる。七日までに妙な動きがなければ、新府へ拝礼に参ると申した。その時、余は二人で心おきなく盃を傾けようと思うておる。信友(のぶとも)は自ら勝沼の姓に直り、余に対して二心がないことを示し、常に陰から惣領と一門を支えることしか考えてこなかった。叔父たちとは、大違いだ。いや、できの悪い叔父たちがよい見せしめとなり、惣領の弟としてのわきまえが備わったのであろう。かような乱世にも、そんな身内の姿があるということだ。ところで、勝千代。そなたは今ひとつ弓の腕前が上がらぬそうではないか」 「……はい。……申し訳ござりませぬ」 太郎は確かに弓箭(きゅうせん)の稽古が得意ではなかった。 今では、後から稽古を始めた次郎の方が上手くなっている。 「武田の御先祖、新羅(しんら)三郎義光(さぶろうよしみつ)公は弓箭の名手であった。猿智慧を鍛える前に、まず弓箭の腕前を磨かぬか。三十間の通し矢で、十本引いて十本、真中丸を射抜くまで初射礼(はつじゃらい)に同席することは許さぬ」 信虎の言った射礼とは、宮中で正月に行われていた射技の会だが、当世では武門の弓始めの儀式ともなっている。神前に供えた破魔弓と破魔矢を使い、その年の鬼門や逢魔(おうま)の方角に設(しつら)えた的を射抜く。毎年、正月の望月(十五日)過ぎに行われた。 「……承知いたしました」 「但馬(たじま)、そなたが勝千代の指南をしてやれ。次郎と同じぐらい厳しくな」 信虎は次男の弓指南役となっている飯田虎春(とらはる)に指導を命じる。 だが、指南とは名ばかりで、その実は太郎の日常に対する監視に他ならなかった。 「御意!」 飯田虎春は神妙な顔で頷く。 「少々喋りすぎて興醒めした。余は室へ戻るが、皆は心おきなくやってくれ。次郎、甘物をたんと食べたら、凧揚げなり、独楽(こま)なり、好きなもので遊ぶがよい。備前(びぜん)、頼んだぞ」 次男を膝から下ろした信虎は、甘利虎泰に後を頼み、大上座を後にした。 太郎は俯いたまま両拳を握り締めていた。 主君の姿がなくなると、張りつめていた大広間の空気が途端に緩む。 板垣(いたがき)信方(のぶかた)は急いで太郎に駆け寄る。 「若、われらも室へ戻りましょう」 両肩に手を添え、退席を促す。 「方々、若君のご気分がすぐれぬようなので、お先に失礼いたしまする」 信方は深々と頭を下げ、太郎を支えながら大広間を後にしようとする。 『あの叱咤をくらっては、さぞかし、ご気分もすぐれぬだろうよ』 誰ともつかない呟きが、二人の背後で聞こえた。 信方の掌の中で、太郎の両肩が小刻みに震えている。 ――とにかく今は室へ戻り、若を落ち着かせねば……。まったく、この身は何をやっているのだ……。 身を挺してでも、主君と長男の間に入れなかったことを、信方は痛烈に後悔した。 同時に、己の無力さに腹が立つ。 それでも、今はひたすら堪えるしかなかった。 こうして、齢十三となった武田太郎と傅役、板垣信方の前途多難な一年が始まった。