よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十五(承前)

 信方(のぶかた)が率いる別働隊は、すぐに小田井原(おたいはら)へ向かう。
 辺り一帯の地勢を入念に調べ上げ、兵を伏せておくために最適な場所に移動した。
「ここを戦場(いくさば)に選ぶとは、さすが昌俊(まさとし)だな」
 信方が眼下の窪地(くぼち)を見下ろしながら呟く。
 陣馬奉行の原(はら)昌俊が迎撃の地に選んだ理由は一目瞭然でわかった。
「まったくにござりまする」
 隣にいる甘利(あまり)虎泰(とらやす)が相槌(あいづち)を打つ。
「孫子(そんし)の教えを絵に描いたような地形ではありませぬか」
 この窪地は東山道(とうさんどう)の追分(おいわけ)宿と小田井宿の中間にあり、ちょうど碓氷(うすい)峠の下り坂の終点にあたる。小田井原とは呼ばれているが、さほど平坦な地形ではなく、微妙な起伏に富んでいた。
 急坂を下った後、開けた平地に出るのだが、その先は再び緩やかな上り勾配が広がっている。信方、甘利虎泰、原虎胤(とらたね)の三隊が陣取っていたのは、その丘の上であり、下り坂の終点がちょうど擂鉢(すりばち)の底のように見えた。
「蟻(あり)地獄とはまさに、このことだな」
 原虎胤が髭をしごきながら不敵な笑みを浮かべる。
「誰しも峠を下りきれば、ほっとしながら脚を止めて休みたくなる。たまさか、その場所が擂鉢の底であり、突然、高陵の三方から敵が攻め下ってくる。一気呵成(いっきかせい)に駆け下りてくる相手の勢いは止めようがないゆえ、後退しようとしても背後は峠の急坂、両脇は狭隘(きょうあい)な山肌だ。しかも、その両脇からは、どこからともなく伏兵が湧いてくる。もしも、己自身がその窮地に追い込まれたらと考えるだけで、背筋が凍りつくわい」
「援軍を叩き潰すのに長い時をかけるわけにはいかぬゆえ、われらにとってはこれ以上の場所はない。とにかく、一気に勝負を決めよう」
 信方が眦(まなじり)を決する。
「敵を完膚なきまでに叩き、今後、関東管領(かんれい)が碓氷峠を越えて信濃(しなの)に入ることを躊躇(ちゅうちょ)させねばなりますまい」
 甘利虎泰が同意した。
「久々に腕が鳴るわい。さりとて、味方の犠牲を出すわけにはいかぬからな。腹八分目にしておくか」
 原虎胤が鬼面の如(ごと)き笑顔を見せた。
 これが天文(てんぶん)十六年(一五四七)八月五日のことだった。
 その翌日、六日の卯(う)の刻(午前六時)頃、碓氷峠の下り坂に兵列が現れる。先頭の足軽が竹に二羽飛び雀(すずめ)の旗幟(はたのぼり)を背負っていた。
 ――まだだ。もう少し敵を引きつけ、窪地に溜まってから打って出る。 
 信方は丘の上で身を伏せ、敵の動きを注視する。
 峠の岨道(そわみち)を行軍するために細長く延びていた兵列を整え直す必要があり、倉賀野(くらがの)の兵が窪地に溜まり始めた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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