よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 まだ後詰(ごづめ)の隊が坂道にいるところで、信方が屹立(きつりつ)する。
「今だ! 行けい!」
 采配を振り下ろした。
 その途端、丘の上の三方で武田勢の槍(やり)足軽が立ち上がり、気勢を上げながら緩やかな斜面を駆け下り始める。
 敵兵は立ち竦(すく)んだまま、茫然(ぼうぜん)とその様を見つめていた。
 武田勢の槍足軽が窪地に到達せんとした刹那、信方は愛駒の背に飛び乗る。
「一気に蹴散らすぞ!」
 愛駒の腹を軽く蹴り、丘の上から飛び出す。
 相呼吸で甘利虎泰と原虎胤の騎馬隊も斜面を駆け下り始めた。
 武田勢の槍足軽が立ち竦む敵兵に槍衾(やりぶすま)を見舞い、窪地は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化す。慌てて振り向いた敵兵の背に、騎馬隊の槍が突き入れられた。
 逃げようとする敵兵が、最後に峠を下りてきた荷駄隊と後詰に鉢合わせし、完全に算を乱す。
 それを見逃さず、両脇の林から飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)の率いる伏兵が横槍を入れた。
 敵を混乱の坩堝(るつぼ)に叩き込み、武田勢は一方的に攻撃を続ける。午(ひる)過ぎには勝敗が決し、金井(かない)秀景(ひでかげ)が率いる関東管領の軍勢は這々(ほうほう)の躰(てい)で碓氷峠を上り、上野(こうずけ)へ敗走した。
 小田井原の窪地は死屍累々(ししるいるい)の有様であったが、武田勢の損害はわずかで負傷者が出た程度だった。
 褒賞の対象となる敵の首級(しるし)を取り、首実検を行ったところ、敵の大将を十五人、雑兵を三千近くも討ち取っていた。
「少々、血腥(ちなまぐさ)い戦になってしもうたの。敵兵とはいえ、無能な将に率いられる者たちは憐れだな」
 原虎胤が袋詰めにされた首級に酷薄な視線を投げかける。
「まったくだ。では、若の本陣に早馬を飛ばそう」
 信方が鬼美濃(おにみの)の肩を叩きながら言った。
 半刻後(一時間)には、小田井原での快勝が晴信(はるのぶ)に伝えられた。
 その日の夜、志賀(しが)城の周囲は関東管領の援軍の首級で埋め尽くされる。
「少々、手荒い方法にござるが、敵の戦意を削(そ)ぎ、降伏を促すには最も有効な策と存じまする。これで援軍への淡い期待も断ち切れ、開城する踏ん切りもつきましょうて」
 原虎胤の提案だった。
 討ち取った敵の生首を晒(さら)すという手法は、古(いにしえ)から城攻めでよく用いられる策である。
 敵の戦意喪失を狙い、武田勢は城を取り囲んだまま無言の圧力をかける。そして、十日の昼には外曲輪(そとくるわ)を、さらに夜更け過ぎ、二の曲輪を攻め落として焼いた。
 翌日、本丸への総攻めが敢行され、笠原(かさはら)清繁(きよしげ)の父子と与力(よりき)の高田(たかだ)憲頼(のりより)が討死し、志賀城が落ちる。城攻めにしては、ほとんど自軍の犠牲を出さず、稀(まれ)に見る快勝だった。
 志賀城を破却した後、晴信は諏訪(すわ)へ帰還する。
 これにより佐久(さく)で武田家に反目する勢力は完全に掃討された。 
 晴信は小県(ちいさがた)への道を力尽くでこじ開け、次なる標的を村上(むらかみ)義清(よしきよ)の砥石(といし)城と定める。連勝の余勢を駆り、士気の昂揚を維持するためにも、次の出陣は年の明けた二月上旬と決められた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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