第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
総大将の余裕に較(くら)べ、前線の将兵は極度の緊張を強いられていた。
――指呼の間に、宿敵がいる……。
雨宮の渡しを封じた武田信繁は肌合いでそう感じていた。
それは全身が粟立(あわだ)ち、喉元まで昂(たか)ぶりがせり上がってくるような感覚だった。
――ただの敵ならば、かようにはならぬ。間違いなく、対岸にわが宿敵と定めた漢(おとこ)がいる。
信繁は対岸の戌ヶ瀬(いぬがせ)にある敵陣を見つめる。
その視線の先には、九曜巴(くようともえ)の旌旗(せいき)に交ざり、蕪菁紋(かぶらもん)の旗幟(きし)がはためいている。それこそがまごうかなく宿敵の旗印だった。
少々とぼけた感じのする蕪菁の絵柄も、越後勢七手組の旗頭を務める武将のものと知った途端、神通力でも帯びたかのように見えてくる。
――越後勢の中で総大将の景虎に匹敵する武人がいるとすれば、それはあの柿崎(かきざき)景家(かげいえ)しかおらぬであろう。いや、景虎が案じた過酷な軍略を先陣で担っているのだから、むしろ武辺(ぶへん)だけで見れば主君よりも上と判ずるべきか。こうして川を挟んで対陣すると、否(いや)が応でも二度目の川中島を思い出してしまう。
信繁が柿崎景家を生涯の宿敵と定めたのは、二度目の川中島戦で直(じか)に干戈(かんか)を交えてからである。
合戦の結末は長期の睨(にら)み合いの末に引き分けとなってしまったが、この一戦で信繁は大いに先陣大将としての自信をつけた。
後からわかったところによると、越後の先陣大将は政虎(まさとら)も称賛する剛勇無双の者だった。
その柿崎景家と互角に渡り合い、精強な一軍を敵陣へ押し戻したのである。それが大きな自信にならないわけがない。
この戦(いくさ)があるまで、信繁は人望をもって家臣たちに慕われてきたが、犀川の激突で越後勢を押し返してからは、剛の者がひしめく武田一門の中で武人としても一目置かれる存在となった。
――柿崎景家と打ち合った時は無我夢中だったが、不思議と怯(おび)えは感じなかった。その感触が今日まで己の武の支えとなっている。それにあの者を生涯の宿敵と定めてから、武の研鑽(けんさん)を怠らなくなった。互いに先陣大将であれば、必ず再び相まみえる時がくる。その時は相手の力量も上がっているに違いない。そう考えてからは、寸刻たりとも鍛錬の手を抜くことができなくなったからだ。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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