よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 最初に口を開いたのは、飯富虎昌である。
「さすれば、あの景虎もおっとり刀で山を下りざるを得ますまい」
 冗談めかした口調だったが、実はかなり本気でその策を考えていた。
「あ奴らの退路を完全に封じて決戦に持ち込む、か。されど、兵部、景虎が自棄(やけ)になり、あの山から諏訪(すわ)や甲斐へ進軍し始めたらいかがいたす?」
 信玄も皮肉な笑みを浮かべながら問い返す。
「われらもそれを追えばよいではありませぬか。追われる者よりも追う者の方が遥(はる)かに有利にござりまする」
「そのわれらの背後を狙い、越後からさらに援軍が追撃してくるやもしれぬ。さらには西上野(にしこうずけ)あたりから坂東(ばんどう)勢の援軍が押し寄せるやもしれぬ。それではわれらが戦局を掌握することができなくなるであろう」
「御屋形様、さようなことを申されるならば、すでに禅問答にござりまする。それがしが申したいのは、このまま静観しておれば、まるで武田が臆しているように見えるということ。それだけは勘弁なりませぬ」
 虎昌は憤懣(ふんまん)やるかたないといった様子で吐き捨てる。
「それは余も同感である。されど、まったく動こうとせぬ敵を無理に動かそうとすれば、こちらも相当な痛手を覚悟せねばならぬ。それは下手な戦、つまり下策であろうな」
 信玄の言葉を聞き、一同は思わず息を呑む。
 総大将がそんなことを言い切ってしまえば、これから具申されるであろう、あらゆる策が下策となってしまうはずだった。
 飯富虎昌は憮然とした表情で黙り込む。
「下手な戦か……」
 信玄は自嘲気味に呟(つぶや)きながら虚空に視線を泳がせる。
「兵部、実はその下手な戦をも辞さぬほど、余の肚は煮えくりかえっておる。あの者どもの所業は、何があっても咎(とが)めねばなるまい。小童(こわっぱ)が戦を弄(もてあそ)べば、どれほどの火傷(やけど)を負うか、景虎にはしかと教えねばならぬ。これより後は、この合戦に上手下手を問わぬ。われらの総力をもって越後勢を叩き潰す。余は本日、さように決心いたした。皆にはそのつもりで策を具申してもらいたい」
 信玄は思いの外、静かな口調で己の決意を述べる。
 大広間は静まりかえり、誰もがその言葉を反芻(はんすう)していた。
「兄上、その御言葉を受け、評定を始めたいと存じまするが、よろしかろうか?」
 信繁が評定の進行を引き取る。
「進めてくれ」
「では、意見のある者は遠慮なく申し出てくれ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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