よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「はっ。……まだ戻っておらぬようにござりまする」
「遅い! 奇襲決行の刻限が迫っているのだぞ!」
「……も、申しわけござりませぬ」
「天城山へ向かった伝令も戻っておらぬのか?」
「は、はい」
「どいつも、こいつも、寸刻の遅れが総軍の危機につながるということがわかぬのか!」
 昌信の言葉に答える術(すべ)もなく、足軽頭はひたすら恐縮していた。
「おい、漏刻を持て」
「はっ、ただいま」
 足軽頭は大将の怒りから逃げるように、その場から走り去った。
 香坂昌信はその背中を睨(にら)みながら、またぞろ喉元に手をやる。
 ――こちらがやむを得ず行軍の経路を変えたとはいえ、未(いま)だ妻女山の背後にいるはずの奇襲隊と連絡が取れぬ。真田殿と馬場殿の隊に何かあったのであろうか?
 松代西条から登攀を始めた香坂隊は深い霧に行手を阻まれ、急遽(きゅうきょ)、経路を変更して尾根下の細い林道を進んでいる。
 その判断が功を奏し、何とか奇襲決行の刻限前に妻女山の北側に辿り着いていた。
 昌信は窪地(くぼち)に自兵を潜ませ、妻女山の背後にある天城山に到着しているはずの真田幸隆と馬場信房の奇襲隊に伝令を走らせる。同時に、敵本陣の様子を探るために物見を出した。
 それが半刻(一時間)前のことだった。
 しかし、まだ伝令も物見も戻っておらず、時だけが無為に費やされている。状況が把握できなければ、隊を動かす術もなかった。
「御大将、漏刻をお持ちいたしました!」
 命令した足軽頭とは別の者が、菰(こも)を被せた水樽を運んでくる。
 香坂昌信は樽の蓋を取り、中を覗く。
 いっぱいに張られていた水はほとんどなくなり、四分割された一番下の目盛も超えている。目盛ひとつが四半刻’(三十分)の経過を示すので、奇襲決行の刻限まで四半刻を切ったということを示していた。
 ――まずい! もうすぐ寅の後刻(午前四時)になってしまうではないか……。ぐずぐずしていては間に合わぬ!
 昌信は思わず地団駄を踏む。苛立ちと焦りがない交ぜになり、背筋に厭(いや)な汗が伝っていた。
 そこへ副将の小畠(おばた)貞長(さだなが)が駆け寄ってくる。
「御大将、物見が戻って参りましたっ!」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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