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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志9 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 こうして、若神子城で五百ほどの諏訪勢が加わり、総勢は八千余となった。  
 信虎が諏訪勢に与力を申し入れたのは、退路の確保を含めて後顧の憂いを断つためである。
 武田勢は一日の休息を得てから、真北に進路を取り、海ノ口城に向かった。若神子城のある北の杜(もり)から海ノ口城までは八里(三十二`)強の道程であり、慎重に二日をかけて進み、平沢(ひらさわ)峠を越えて佐久郡の南牧の里に布陣した。
 しかし、そこから状況が急変する。
 出陣の朝は晴れていた空が次第に重い黒雲に覆われ始め、やがて冷たい雨が降り始めた。
 大方の者はすぐに晴れるだろうと思っていたが、頭上は曇天に覆われ続け、雨脚が弱くなることはあっても、寒雨が止む気配はない。
 南牧の里は八ヶ岳(やつがたけ)の東麓にあたり、天候は周囲の山岳の影響を受けやすかった。夜更け過ぎから朝方にかけ、雨の沁みた大地は霜に覆われ、底冷えする。いくら焚火をしても、その凍てついた地で過ごすのは苦行に近かった。
 こうした天気の悪さを最も危惧していたのが信方である。
 ――これ以上、雨が続くようだと、城攻めどころの騒ぎではない。野営を続けるだけで、兵の士気が落ち、まともな戦にならぬ……。
 同じような思いを抱き、晴信も不安を隠しきれなかった。
「……板垣、父上から何の御下知もなく、この後、どのような戦いになっていくのか見当もつかぬ」
「まずは天気の回復を待つというのが、戦の常道かと。御屋形様は状況を注意深く見ておられるのだと思いまするが」
「……さようか」
「海ノ口城は千曲川(ちくまがわ)の上流にあたる奥深い山間(やまあい)にありますゆえ、雨中の城攻めは難しゅうござりまする。何よりも、兵にとっては寒さが大敵となりまする。今は力を溜め、好機を待つのが肝要かと」
「そのようには思うておるのだが……」
 晴信は納得のいかない表情で黙り込む。
 何かを言い淀んでいるような様子だった。
「若、何か他に思うところがお有りならば、この板垣めには遠慮なく申されませ」
 信方に促されても、晴信の口は重い。
「……戦を知らぬ身で言うべきかどうか」
「他には誰も聞いておりませぬ。ここだけの話ということで、存分に」
 信方は苦笑しながら言う。
「……わかった。昨日、孫子の兵法に説かれている城攻めのことを思い返していた。それで、この戦における理(ことわり)を考えていたのだが、いっこうに父上の御真意がわからぬ。おそらく、深い意図がおありだとは思うのだが」
「孫子のどの部分にござりまするか。それがしもうろ覚えゆえ……」
「謀攻篇の第二節なのだが『故に、上兵は謀(はかりごと)を伐(う)つ。その次は交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む。城を攻むるの法は、已(や)むを得ざるが為(ため)なり』という部分が気になって仕方がない」
 晴信は孫子の一節を淀みなく暗誦した。
 それを聞いた信方が驚きながら答える。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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