よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 旗本は先ほどまでの騒擾(そうじょう)とはうって変わり、落ち着きを取り戻していた。 
 そこへ第二陣から義信が駆けつける。
「父上! 八幡原にいた敵勢を掃討いたしました! ただいま、先陣の残りとわが第二陣をまとめ直しておりまする」
 下馬した嫡男が片膝をつく。
「さようか」
「他の隊はいかように動いておりまするか?」
「隼人佑(はやとのすけ)、義信に各所の戦況を教えてやれ」
 信玄は陣馬(じんば)奉行の原(はら)昌胤(まさたね)に命じる。
「はっ! 承知いたしました」
 原昌胤は各所から入ってきた報告をまとめて伝える。
 それによれば、丹波島では香坂昌信と甘利昌忠の軍勢に猛攻を受け、柿崎景家と甘粕景持の越後勢が多大な犠牲を払いながら犀川を渡り、善光寺横山へと退却していた。
 馬場信房と真田幸隆の軍勢に丹波島の越後勢と分断された直江景綱と宇佐美定勝は、武田勢に猛追されながら西側の小市の渡しまで退き、そこから命からがらに犀川を渡っている。
 そして、敵の総大将と思(おぼ)しき者を追った飯富虎昌と赤備衆は、馬場ヶ瀬と呼ばれる千曲川の浅瀬で敵と交戦したが、ぎりぎりのところで上杉政虎と宇佐美定満を逃していた。
 それを聞いた義信が気色ばむ。
「兵部、しくじったか! されど、敵は完全に背を見せているのではありませぬか?」
「さようにござりまする」
 原昌胤が頷く。
「ならば父上、それがしに犀川を渡河しての追撃をお命じくださりませ。今ならば奇襲隊をまとめて越後の者どもを散々に追い回し、さらに多くの者を討ち取ってご覧にいれまする。さすれば、いずれ景虎の首にも届くかと」
 完全な優勢を確信した義信は昂(たか)ぶった口調で進言する。
 それを聞き、信玄は静かに眼を閉じた。
 ─―確かに、義信が申す通り、犀川を渡って追撃するならば、今この時をおいて他にはあるまい。されど、果たして、それが正しい判断であろうか……。
 脳裡で様々な思案が浮かぶ。
 ─―われらはすでに長く戦いすぎた。こたびの戦いを見切るならば、同じく今この時をおいて他にはない。
 信玄は黙ったまま微動だにしなかった。
 その姿を見て、義信がもどかしそうに叫ぶ。
「……父上、それがしが叔父上の仇を取ってまいりまする! 追撃の御下命を!」
 それでも、信玄の答えはない。
「父上!」
 嫡男の苛立(いらだ)った声を聞き、信玄がゆっくりと眼を開ける。
「……その必要はなかろう」
「されど!」
「逸(はや)るでない」
 信玄は義信を制止した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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