第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)8
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
その手を握り、宇佐美定満が力を振り絞って放生月毛の背に飛び乗る。
「行け、放生!」
上杉政虎が叫び、愛駒が二人を乗せて駆け出す。
「……おのれ、待て! 逃げるだけしか能がないのか、卑怯者めが! 尋常に勝負せよ!」
起きあがった飯富虎昌が、逃げる敵の背に怒声を投げつける。
─―馬は、……走れる馬はおらぬか?
赤備衆の猛将は、周囲を見回す。
しかし、傍に無事な馬は一頭もいなかった。
その間にも、放生月毛の馬体が遠ざかっていく。
─―おのれ、すんでのところで大魚を逃したか!
歯嚙(はが)みしながら大地を蹴るが、敵を追う術(すべ)は残っていない。
─―仇首ひとつ、奪(と)ることもできなかったというのか……。
その場で胡座(あぐら)をかき、赤備の猛将は地面に拳を打ちつける。
─―戦場を駆け回るには、少しばかり歳(とし)を取りすぎてしまったのやもしれぬ……。
虎昌は大きく溜息をついた。
─―いや、あのような越後の老骨が、未(いま)だに戦場におるのだ。まだ、隠居などしてなるものか!
そう思いながら、飯富虎昌が天を仰ぐ。
その刹那、信じ難い光景が瞳に映った。
白虹(はっこう)。
日輪の周りに、見事な真円の虹がかかっている。
日暈(にちうん)とも、幻日環(げんじつかん)とも呼ばれる、珍しい晴天の虹だった。
時を同じくして、もう一人の老将、宇佐美定満も天を仰ぐ。
「……御屋形様、あれを」
上杉政虎はおもむろに顔を上げて空を見る。
その刹那、思わず、しごいていた手綱を止めてしまう。
「幻日環か……」
古(いにしえ)より唐(から)の国では「天日が二つに見える幻日環は大兵乱の兆し」と伝えられている。
政虎は眼を細め、しばらく、その不思議な光景に見入っていた。
─―我執に囚(とら)われた戦とは、かくも苦きものであったか……。
そう思いながら、越後の総大将は再び手綱を引いた。
主君の背にしがみつきながら宇佐美定満が訊く。
「御屋形様、なにゆえ、お戻りになられました?」
「そなたを見捨てたのでは、この戦、余の負けとなろう」
「されど……」
「そなたにはまだ、やってもらわねばならぬことが山ほどある」
そう呟(つぶや)きながら、上杉政虎は右手の刀を鞘(さや)に収めようとする。
しかし、その刀身が収まらない。さしもの銘刀、小豆長光も倒した敵の分だけ刀身が曲がり、刃こぼれしていたからである。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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