よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ─―これで越後勢の本隊と後詰を完全に分断できる。
 真田幸隆は前方の敵を睨(ね)めつけた。
 馬場隊に寄せられた直江景綱は声を張り上げて采配を振る。
「弓隊は前へ! ありったけの矢を放て! ますは敵の足を止めよ!」
 前へ出た越後勢の弓隊が、左右から寄せてくる武田勢へ一斉に矢を射かける。
 その攻撃により、馬場隊と真田隊の勢いが鈍るかに見えた。
 しかし、六千にも及ぶ武田勢の寄手は臨機応変に行足(ゆきあし)を変え、さらに左右へと広がりながら前へ進む。
 相手の矢が尽きれば、その瞬間から総力戦となる。それがわかっている武田の将二人は合図もなしに、絶妙の呼吸で陣形を変化させた。
 まっすぐ突撃すると見せかけた馬場隊は微妙に速度を落とし、敵の矢を避けながら蛇行し始める。
 逆に、大きく迂回(うかい)すると見せかけた真田隊が進路を変え、一直線に越後勢へ攻めかかった。
 真田幸隆は敵が怯む様を見逃さない。
「鋒矢(ほうし)の陣形で出鼻を挫(くじ)くぞ!」
 すかさず騎馬隊を鏃(やじり)の形を変化させる。
 先に動いていた正面の馬場隊に気を取られ、越後勢は左側から突進してくる真田隊に即応できない。
 鋒矢は突撃に特化した陣形である。見事に相手の横腹を突く形で、真田幸隆は直江景綱の陣に痛烈な一撃を加える。攻め弾正(だんじょう)の異名を持つ大将ならではの見事な騎攻だった。
 越後勢は防戦一方となり、真田隊を抑えようとする。
 その様を見て取った馬場信房は、大きく広がった将兵たちを呼び寄せる。
「戻れ! 魚鱗(ぎょりん)で攻めるぞ!」
 その号令で、馬場隊が再び中央に集まり始め、魚鱗の陣形を組む。
 そして、真田隊への対処に手こずる敵の正面から突き入った。
 六千余の武田勢は凄(すさ)まじい攻撃を仕掛け、敵を犀川へ追い落とそうとする。
 その巨大な圧力を感じながら、越後勢の後詰は一気に背水の陣へと追い込まれた。
 ─―このままでは危ない! 御屋形様をお待ちするどころではなく、われらの全滅もあり得る!?
 直江景綱は咄嗟(とっさ)に危機を察知する。
「西へ……西側の小市へ退け!」
 後詰の隊を西側に撤退させようとする。
 しかし、相手の猛攻を凌(しの)ぎながら退くのは難しい。
 越後勢はすぐに算を乱し、怯(おび)えた足軽たちが敵に背を見せて逃げ始める。
 ─―まずい! 一気に崩される!
 直江景綱はすぐに命令を追加する。
「偃月(えんげつ)の陣を組め!」
 自ら敵側に馬首を返し、騎馬隊に半円の陣形を組ませる。
 偃月とは半月のことであり、半円の隊形を組みながら両翼を下げ、大将を含めた精鋭部隊が前に出て戦う陣形だった。
 前線で戦おうとする己の姿を見せることで、後方にいる兵の士気を高めることができるのだが、大将が討ち取られる怖れもあり、通常ではほとんど使われない。
 偃月の陣は、背面に河などの地形の不利がある時や死地に追い込まれた状況から撤退する時にしか布(し)かれなかった。 

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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