よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 織田信長は眼前の美濃に義父の怨敵、斎藤龍興を見据え、東にまで手が回らなかったため、松平家康に三河を固めさせ、信玄とは誼を通じて時を稼ごうとしていたのである。
 三者は互いに似たような事情を抱えており、まだ遠江を巡って争うというところまで至っていない。
 信長は再三にわたって進物を届け、何とか信玄の機嫌を損ねまいとしている。その裏では松平家康を操り、今川家の切り崩しを謀っていた。
「織田からの進物とは、まことにござりまするか?」
 義信が驚愕(きょうがく)の面持ちで訊く。
「ああ、まことだ。三郎の言い分によれば、たまさか今川家に攻められたために戦となったが、武田家とは事を構えるつもりはないと申しておる。できれば、誼を通じたい、とな」
「まさか、父上は今川家の怨敵である織田と手をお結びになると?」
「そうは申しておらぬ。ただし、三郎が遠江に出張ってこぬかぎり、いたずらに事を構えることはなかろう」
「されど、松平の後ろに織田がいることは明白ではありませぬか」
「さようだな。されど、三郎は松平党の動きを与(あずか)り知らぬ事柄と申しておる。家康とやらが旧主と勝手に揉(も)めているだけだとな」
「父上はそれを真に受けておられるのでありまするか?」
 義信はむきになって問う。
「真に受けているはずがなかろう!」
 信玄が怒ったように答える。
「ただ、奇策を弄したとはいえ、寡兵で義元殿を打ち破った三郎の得体が知れぬ。相手の底が見えるまで、少しばかり付き合うてやろうというまでだ。それは松平党とて同じ。今川相手にどこまでやれるか、見極めている最中だからな」
「では、今川家から援軍の要請があった時は、どうなさるおつもりにござりまするか?」
「今川家からの援軍要請か。必要ならば、とうにきているはずだがな。三河と遠江がかような状態になりながら、まだ当家に援軍を願わぬところが、氏真の未熟さということか。あるいは、つまらぬ意地を張っているのか。もしくは、危機感が足りぬのか。いずれにせよ、今川家はすでに以前の今川家ではない。どこかで見切りが必要になるやもしれぬな」
「父上、見切りとは、いかなる意味にござりまするか?」
 義信が食い下がった。
 その嫡男を、信玄が半眼で睨む。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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