よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「……勝手とは思うておりませぬ。逆に、お訊ね申し上げまする。西上野の攻略は、この身にお任せいただいたはずでは?」
「西上野の攻略を任せたとは申しておらぬ。調略を主体として国峯城をはじめとする甘楽(かんら)郡の城を落とせと命じたのだ。それをなにゆえ碓氷郡にまで兵を出した」
「……好機と見ましたゆえ」
「ならば、なにゆえ、事前に報告を入れなかったのだ」
「先ほども申し上げた通り、お任せいただいたと思うておりましたゆえ」
「それを勝手と申しておるのだ!」
「心外にござりまする!」
 義信も語気を強める。
「それならば、真田(さなだ)の岩櫃(いわびつ)城攻めも同じではありませぬか」
「まったく違うわ!」
 信玄が一喝する。
「一徳斎(いっとくさい)は常に細かく報告を入れ、兵を出す機を余に訊ねてきている。それらを吟味し、余が了解を出していたのだ。そなたの勇足(いさみあし)とは違う」
 怒りをこめて扇で脇息(きょうそく)を打擲(ちょうちゃく)し、煩(わずら)わしそうに眼帯を直した。
「よいか、義信。いま、当家は四方どころか八方に火種を抱えており、見渡せば周りは敵だらけなのだ。かような時こそ、家臣の一人一人がわが分身の如(ごと)く情勢を見極め、それを報告せねばならぬ。余が決して戦(いくさ)を単独で考えたりしてはおらぬからだ」
 確かに、信玄は戦を単独のものとして考えていない。
 常に周囲全体の情勢に目を配り、敵の動きを見極めながら一戦を案じ、さらに先の戦いに繋(つな)がる策を幾重にも講じている。硬軟取り混ぜた計略で敵を翻弄しながら、一歩ずつ戦いの地固めを行っていくというやり方だった。
 それは「眼前の合戦をどの時点で目標達成と考えるか」という見切りにも繋がっている。
 つまり、上野での戦いも単独のものではなく、甲斐と信濃(しなの)に接する隣国すべての状況と連動していると考えていた。
「たとえば、飛騨(ひだ)には輝虎(てるとら)と誼(よしみ)を通じている姉小路(あねこうじ)良頼(つぐより)がおり、かの者と対峙(たいじ)している当方の江馬(えま)時盛(ときもり)からは、しきりに援軍要請が届いている。また、郡上八幡(ぐじょうはちまん)の長井(ながい)利通(としみち)は、美濃(みの)の斎藤(さいとう)龍興(たつおき)に攻められ、どうしても救援がほしいと懇願してきた。兵粮(ひょうろう)まで貸してほしいとな。郡上八幡まで出張れば、斎藤も黙ってはおるまい。いずれは美濃とも構えることになるならば、飛騨と郡上八幡の件は一挙に片付けてしまった方がよい。西上野を睨(にら)みながら、そうした方面へも眼を配らねばならぬ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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