「なんでも、御屋形様の御帰還の際に新府の手前で御一行をお待ちし、そこで直訴なさるとも言っていたような。実に危うい話をしているなと思いましたが」 跡部信秋はわざと火に油を注ぐような話をぶつける。 「なんということか。ならば、丸腰のはずがなかろう」 「……そこまではわかりませぬが」 「跡部、よくぞ知らせてくれた。これは、そなたの手柄になるやもしれぬぞ」 「ありがとうござりまする」 「そこで相談なのだが。引き続き、向こうの様子を細かく探れぬか?」 狡猾(こうかつ)な笑みを浮かべ、飯田虎春が持ちかける。 「ご要望とあらば、細かく探ることはできますが」 「さようか。では、頼めるか」 「承知いたしました」 跡部信秋は小さく頭を下げてから、飯田虎春の屋敷を退出した。 ――これで土屋殿の一派は戦支度を始めるであろう。しなければ、飯田虎春はただの阿呆(あほう)だ。少しでも動きがあったならば、それを駒井殿あたりに伝え、少し煽(あお)ってくれようか。 独りごちて薄く笑う。 ――今頃、原加賀守(かがのかみ)殿が板垣(いたがき)殿の背を押しておられるであろう。それがしはその手助けをいたす。青木殿の一派と土屋殿の一派が一触即発の状態になれば、いかに奥手な板垣殿とて動かざるを得なくなるはずだ。おそらく、備前守(びぜんのかみ)殿もそれに同調するであろう。すべてはわれら新参者も分け隔てなく扱ってくださる晴信様を押し上げるためだ。この身は初陣の時から、すっかりあの御方に惚れた。 跡部信秋は二つの寄合を行き来しながら罠を仕掛けるつもりだった。 案の定、この日から新府が不穏な空気に包まれる。 青木信種の一派と飯田虎春が率いる土屋一派が密かに戦支度を始め、そこかしこにささくれだった気配が充ちていた。 敏感な晴信はそれを肌合いで察知する。 ――新府の様子がどこかおかしい。板垣はどのように思うているのだろうか。 傅役(もりやく)が何か知っているかを確かめなければならないと思っていた。 信方も日増しに高まる緊張を感じながら、まだ最後の一点で悩んでいた。 ――確かに、昌俊の策は的を射ており、それしか方途が思いつかぬ。されど、それを断行するためには、超えておかねばならぬ大きな障害が待ち受けている。それはすなわち、若の御承認だ。しかも、廃嫡の件を含め、すべてを包み隠さずお伝えした上で納得していただかねばならぬ。若の御気性からして中途半端な説明でごまかすことはできぬ。とはいえ、もはや逡巡(しゅんじゅん)している暇もない……。