よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 少し前に、左翼から逃げてきた足軽から山本菅助の討死を聞かされ、愕然(がくぜん)としていたところに追い打ちをかけるような悲報だった。
 ─―たった一刻(二時間)ほどで、先陣両翼の大将と兵の大半を失ってしまったというのか……。
 信繁が受けた衝撃は計り知れない。
 そして、今回の奇襲策が完全に失敗したことを悟った。
 ─―景虎はわれらの奇襲を完璧に読んでいた。突きつけられた事実を受け止めるならば、そうとしか考えられぬ。しかも、われらの策を空振りさせた上で、妻女山の総軍で二重の奇襲をしかけてきたのだ……。
 己の考えが正しければ、この緒戦で味方の先陣は信じ難い被害を受けている。
 両翼にいた三千近くの兵を失い、味方の兵力は敵の半分以下となった。八幡原の武田勢は一気に窮地へ陥っており、妻女山へ向かった奇襲隊が戻る気配もまだない。
 その間にも、先陣右翼を突き崩した越後勢の騎馬隊が中央の自陣へ迫ってくる。
 怒号。叫喚。そして、蹄音。
 その非情な響きが萎縮した鼓膜を震わせ、軆の芯から覇気を剥ぎ取ろうとする。
 ―─この戦、負けるやもしれぬ……。
 耳鳴りが吐気を誘い、信繁は愛駒の背を飛び下り、その場へ蹲(うずくま)ってしまいたい衝動に駆られる。
 ─―いや、いまはさように惰弱なことを考えている場合ではない!
 奥歯を嚙みしめて鐙(あぶみ)を踏み、眼前の光景を凝視する。
 前方の兵に渾身の攻撃を放ち、瞬く間に遠ざかっていく敵の黒い殺風。夥しい血飛沫(ちしぶき)と無造作に転がる味方の屍。自軍の兵だけが一方的に倒されていた。
 ―─すぐ近くに、わが宿敵がいる! ここで踏ん張り、何としても敵の勢いを止めねばならぬ!
 龍蜷の陣形をとり、車懸の戦法で攻めかかってくる越後勢を睨めつける。
 ─―未(いま)だかつて戦の場において、武田の先陣がこれほどの劣勢に立たされたことはない。生殺与奪。天上の神仏だけが支配するはずの生死を、まるで敵がその手に握っているような戦況だ。
 信繁はその惨状を目の当たりにしながら何度も己の口唇を嚙み、痛みによって正気へ戻ろうとする。
 そして、凍りつきそうになる軆を震わせて叫ぶ。
「怯(ひる)むな! ここで退いてはならぬ!」
 それは己に言い聞かせるが如き必死の叫びだった。
「盾を構えて前へ出よ!」
 越後勢の猛攻に対し、盾足軽を押し出し、何とか相手の先頭を止めようとする。
 そうしなければ、この先陣中央が破られてしまう。そうなれば総大将がいる旗本まで貫かれ、なし崩しのまま全滅してしまう恐れがあった。
 しかし、機先を制して勢いに乗った敵は、さほど容易(たやす)く摑まらない。
 耳目を聳動(しょうどう)させられ、及び腰となった武田勢の足軽たちにとって、柿崎景家の率いる黒母衣(くろほろ)衆の騎馬武者を止めることは至難の業だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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