よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ─―倒した相手を眺めている暇などあらぬ。
 そう思いながらも、軆が動かない。
 しかも、なにゆえ、己がこのようなことをしているかと問われたならば、説明できそうになかった。
 ただ首筋と右肩の激痛を感じながらこの場に佇(たたず)む。
 己の鼓動に合わせて波の如く満ち引きする激痛だけが、柿崎景家にとって戦場で生き残っているという証(あかし)だった。
 同じように、眼下の漢も痛みだけを感じながら、かろうじて生きている。鼓動に合わせて深い傷口から大量の血が噴き出していた。
 ―─戦場に臨む武士にとっては、痛みを感じるということだけが、生きるということのすべてなのか?
 そんな思いが猛将の脳裡をよぎっていた。
 そして、倒した相手の脳裡にも、様々な思いが走馬燈(そうまとう)の如く巡っている様が手に取るようにわかる。
 確かに、信繁の脳裡には、幼い息子たちの面影を筆頭に懐かしい想い出が巡っていた。そのせいか、蒼天に向けられた瞳にうっすらと泪(なみだ)が浮かんでいる。
 知らぬ間に、先陣大将二人の魂魄の震えが同調していた。
 それを悟った時、柿崎景家は己の胸の裡に渦巻く奇妙な感情が何なのか、初めてわかったような気がする。
 もちろん、その感情は、死にゆく相手に対する情けなどではない。
 無常。そして、無情。
 それは、武士(もののふ)としての無常な生死観だった。
 ─―一騎打ちとしてならば、この漢に負けていた。されど、瞬きの間に勝敗が、……互いの生死が入れ替わるのも、また戦場の常。おそらく、己とこの漢の生死は深く、どこまでも深く今生で交錯した。一度は死を観念したこの身が生き残り、乾坤一擲の生き残りを見据えていた漢が死にゆくのは、武辺の違いなどではあるまい。ましてや、力量でも、才でもない。天のみぞ知る宿命なのであろう。それゆえ、己がここで生き残った理由を問われても、答えることができぬ。ただ、……ただ、武士としての無常と、戦った者だけにしかわからぬ魂魄の震えと、ふりほどけぬ寂寥(せきりょう)だけが、今の二人の間にある。
 柿崎景家は静寂の中で凍り付いていた。
 その姿を見上げながら、信繁は呻声(うめきごえ)とともに血の塊を吐き出す。持ち上げようとした指先が幽(かす)かに震え、最後の力で何かを伝えようとしていた。 
 それを見た越後の先陣大将は、我に返って声を発する。 
「其(そ)の方(ほう)は、以前、犀川でそれがしと数合を交えた武田の先陣大将だな?」
 柿崎景家の問いかけを、信繁はじっと聞いていた。
 それから、血まみれの面相で微かに頷いて見せる。
「名乗りを上げる気力は、あるか?」
 静かな口調で訊いた柿崎景家を、信繁が見つめる。
 それから、渾身の力で軆を起こそうとする。
 しかし、それは叶(かな)わず、わずかに首を持ち上げただけで、再び大地に倒れた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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