よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 菅助は傍(そば)にいた成瀬(なるせ)正一(まさかず)と石黒(いしぐろ)五郎兵衛(ごろべえ)に命じる。
「……お前たち、急ぎ豊後殿の陣へ行き、この有様をそのまま伝えよ! 次は右翼が狙われる! この劣勢を右翼に伝えたならば、すぐに御屋形様の本陣へ急げ! それで、かように申すのだ。菅助が一命を賭して敵を押さえますゆえ、どうか御屋形様と旗本衆は海津城へお入りくださりませ、と。よいか、違わずに伝えるのだぞ!」
「……あ、あぁ、はい。承知いたしました」
 成瀬正一が蒼白(そうはく)な顔で頷く。
「急げ!」
 隻眼(せきがん)の足軽大将に促され、二人は慌ただしく左翼の陣を後にする。
 ―─御屋形様、愚かな策を講じた菅助をお許しくだされ。とにかく、奇襲隊が妻女山から下りてくるまで、この一身を挺(てい)して何としてでも時を稼ぎますゆえ、どうか、ご無事で。
 それは悲壮な覚悟だった。
「皆の者、よく聞け! 残った者だけで打って出るぞ!」
 菅助は時を稼ぎ、主君を城まで退かせるつもりだった。
「よいか、われらが持ちこたえさえすれば、右翼の兵が加勢してくれ、典厩殿も駆け付けてくださる! 加えて、戻ってくる奇襲隊が敵の背後を突いてくれるはずだ。さすれば、われらの勝ちとなる! とにかく、今は耐えよ!」
 それは咄嗟に口から出た菅助の方便だった。
 援軍が来るまで持ちこたえられる可能性はかなり薄い。
 それでも、何もせずに相手から押し切られるよりは、左翼の兵が総出で突撃した方がわずかながらでも戦況を変えられる可能性があった。
「皆、恐れずに全力で当たれ! 箕手の構えだ! 先陣足軽隊の意地を見せてくれようぞ!」
 声を振り絞って兵を鼓舞し、菅助は自らが先頭に立ち、前方へ走り出す。
 だが、たった三度の攻撃を受けただけで、千五百はいた先陣左翼の兵の大半を失っていた。
 蜷局を巻き続ける敵の勢いは衰えておらず、騎馬の先頭はすでに先陣右翼に向かっている。代わりに、後方から三千余りの敵足軽隊が止(とど)めを刺すべく押し寄せてきた。
 次々と新手が現れる中、菅助は脇目も振らずに突撃し、敵の足軽を十三人まで突き倒す。周りでは、残り少ない味方の兵たちも必死で戦っていた。
 しかし、これまで被(こうむ)った劣勢は、容易なことで跳ね返せるはずがなかった。じりじりと押し返されながらも、武田の左翼足軽隊は必死で踏ん張っていた。
 菅助は鬼の気迫で十四人目の敵を突き倒す。
 だが、十五人目を迎え撃とうとした時、夥しい数の寄手に囲まれ、一斉に敵の槍が突き入れられる。
 菅助の全身に激痛が走った。
 ─―無念! 御屋形様、ご無事で……。
 血を振りまきながらも、さらに前へ進もうとするが、やがて力尽きて仰向けに倒れる。
 寸刻後、すでに光を失った隻眼が、無念そうに川中島の蒼空を睨みつけていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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