よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 それでも最後の余力を振り絞り、声を発する。
「……た、武田……先陣大将、左馬助(さまのすけ)、……み、源の信繁」
 渾身の名乗りだった。
 ─―甲斐源氏、武田家惣領(そうりよう)の実弟、信繁。やはり、さようであったか……。 
「しかと承った。それがしは、上杉(うえすぎ)先陣大将、柿崎和泉守(いずみのかみ)、平景家と白(まお)す」
 柿崎景家は嗚咽(おえつ)を洩(も)らすように名乗りを上げる。
 柿崎家は桓武平氏(かんむへいし)の流れを汲(く)む一族だった。
 それを聞いた信繁が微かに頷く。その目尻から一筋の泪が零(こぼ)れ落ちる。
 互いに見事な名乗り合いであった。
 源平合戦の世ならば、こうして互いに名乗りを上げてから、大将同士の一騎打ちになったであろう。しかし、当世の戦では、それすらもままならない。
「……ひ」
 信繁が声を振り絞る。
「……ひ、ひとつだけ、そなたに訊ねたい……」
 その申し入れに、柿崎景家は戸惑う。
「何であろうか?」 
「……さ、先ほどの一騎は、……え、越後の総大将……」
 言葉に詰まり、再び武田信繁が血を吐く。
 越後の総大将であったのか?
 そのような問いらしかった。
 柿崎景家にはあれが上杉政虎ではなく、幻だということがわかっていた。越後総大将と同じ装束を身につけた若武者、本庄(ほんじょう)秀綱(ひでつな)だったからである。
 それでも、柿崎景家は返答に迷う。
 ─―末期を迎えている者に、非情なれども、まことのことを告げるべきか? それとも、偽りを口にしてでも、この漢の敗北が越後の総大将によってもたらされたと信じたまま逝かせてやるべきなのか……。
 実に、難題だった。
 一瞬だけ思案した後、柿崎景家は穏やか声で言い放つ。
「……そなたの、思うた通りであろう」 
 嘘(うそ)では、ない。ぎりぎりの情けである。
 もしかすると、この漢にも宿敵の情けがわかっていたかもしれない。
 信繁は静かな半眼の相でそれを受け止める。
「……な、なれば、わが生涯に……悔いなし」
 武田先陣大将の返答を聞き、柿崎景家は思わず蒼天を仰ぐ。
 それから、面を下げ、消えゆこうとする命に眼を凝らす。 
「敵ながら、天晴れな槍捌きであった。これ以上の痛みに苦しまぬよう、それがしが介錯(かいしゃく)を仕(つかまつ)りたい」
 宿敵からの申し入れに、信繁は頷き、観念した面持ちでその半眼を閉じる。
「……かたじけ……なし」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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