よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 その時、思ったのである。
 ─―われら先陣が虎の爪となり、龍の首に捨身の一撃を加えねばならぬ! ここで一命を惜しめば、虎爪の一撃すら届かぬであろう。
 そう考えながら、鎧通しで己の髷(もとどり)を切った。
 それから、身につけていた紅母衣を外し、乱髪の鬢(びん)を包む。
 この母衣は、兄の信玄が金泥(きんでい)で法華経(ほけきょう)の陀羅尼(だらに)を認(したた)めてくれた特別の物だった。自分が武田の先陣を担うようになってから授かったものである。
 咄嗟に、それらを幼い息子に渡す形見の品と決めた。
 信繁は近習の春日(かすが)源之丞(げんのじょう)を呼び、その品を渡して嫡男の長老丸に届けるように命じる。
 己の一命が尽きようが、運良く生還できようが、これだけは手渡しておきたいと考えたからである。そこまで切羽詰まっていた。
 春日源之丞は主人の駒の轡にすがり、喉を詰まらせる。
「若君への御形見の遣いを仰せつけられたことは、まことに有難き幸せと存じまする! されど、かような役目は、他の者へお申し付けくださりませ。御大将が討死も辞さぬと御覚悟なされたならば、どうか、それがしにお供をさせてくださりませ!」
 涙を堪(こら)えながら懇願する側近の将を、信繁は一喝する。
「それがしが形見を渡すは、己の未練を断ち切るため! その覚悟を無にするつもりならば、この場で勘当いたすぞ! よいか、源之丞。そなたに遣いを命じるは、必ずこれが長老丸の手に届くと信じておるからぞ。そして、倅(せがれ)がこの母衣を身につけて初陣を迎え、武田の先陣で戦い続ける様を、そなたが側で見届けねばならぬ。それゆえ、そなたに、この役目を頼むのだ。今は寸刻の時も惜しい。これを持ち、早く御屋形様のもとへ行け!」
 主人に叱咤され、この近習は形見分けの品をかき抱き、後ろ髪を引かれながら先陣を後にする。 
 信繁には、今年で齢(よわい)十三となる長老丸という嫡子がいたが、まだ元服を迎えておらず、この合戦には参じていない。このような戦況になるとは思いもしておらず、窮地で己の覚悟を決めるためには、息子が川中島にいなかったことを幸いと考えた。 
 ─―柿崎景家、うぬにいかような身内がおるかは知らぬが、その首級は頂戴いたす。ただとは、申さぬ。この一命をもって刺し違えてくれようぞ!
 信繁は捨身の一撃を放とうとしていた。
 もちろん、柿崎景家にも弥次郎(やじろう)という幼い嫡男がいる。
 しかし、武田の先陣大将は、そのことを知る由もなかった。
 群を抜く駿馬(しゅんめ)に跨った二人の先陣大将は、追いすがる者たちを寄せ付けない。まるで引き合う磁石の如く、互いの間合を縮めてゆく。
 戦場で稀(まれ)に起こる偶発的な一騎打ちが目前に迫っていた。
 いや、この二人にとっては、このような戦いの時を迎えることこそが必然だったのかもしれない……。
 紅絲緘の胴に光る武田菱(びし)の金紋。
 黒絲緘の当世具足に金泥の蕪菁紋。
 それが互いの眼に映り、信繁は朱槍を構え、柿崎景家が黒漆塗りの槍を握り直す。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number