よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 なにゆえ、瞬きの刹那に、生と死が入れ替わるのか……。
 それは、誰にもわからない。
 柿崎景家にとっても、だた信じられないほどの現実であった。
 愛駒の鞍(くら)から地上へ落ちる信繁の顔が、なぜか、景家には微かな笑みをたたえたように見える。
 ―─わが意は、寸分届かず……。まさか、この機で景虎が現れるとは……。兄上、不甲斐なき信繁をお許しくだされ。御武運をお祈りいたしまする!
 鎧の擦れる音が響き、武田の先陣大将が大地の上で仰向けに倒れる。
 その周囲で、遅(おく)れ馳(ば)せながら駆けつけた武田騎馬隊と柿崎隊の黒母衣衆が激突していた。
 大将を倒された武田勢は断末の鬼の如く暴れ回るが、多勢に無勢ゆえ、一騎また一騎と仕留められてゆく。
 さらに後方から柿崎隊の援護に駆けつけた越後勢の足軽が、地上で大の字になった武田の先陣大将に群がり、鎧通しで止めを刺す。
 さらに、己の手柄にすべく、首級を切り離そうとする。
 その刹那、だった。
 馬上から見下ろしていた柿崎景家の胸に、突然、奇妙な感情が沸き上がってくる。
 何とも言葉にならない混濁した思いが渦巻き、気が付くと味方の足軽に向かって叫んでいた。
「どけ!」
 柿崎景家が血塗(ちまみ)れた槍を振るい、足軽たちを追い払おうとする。
「どかぬか! まだ、その首級に触るでない!」
 急に怒りだした先陣大将を、越後勢の足軽たちは狐(きつね)につままれたような顔で見上げる。
 景家当人もなぜ己がこんな行動に出ているのか、よくわかっていなかった。
 だが、軆だけが勝手に動いてしまう。 
「その者に触るな!」
 気がつくと、柿崎景家は胸の裡(うち)に滾(たぎ)る奇妙な感情をぶちまけるように、必死で叫んでいた。
「……首級を取らぬでも褒美はくれてやるゆえ、そなたらは武田の第二陣へ押し込むのだ! 行けい! さっさと行かぬか!」
 先陣大将に怒鳴られた足軽たちは訳もわからず、間尺に合わないといった表情でその場を逃れ、前方へ走っていく。
 その様を見た黒母衣衆も、大将を残して無言で馬を発進する。
 大方の敵を倒し終えており、ここに留まる必要はなかった。それ以上に、自分たちの大将の心中を察して動いたと言うべきであろう。
 静寂。あるいは、あまりにも奇妙な停滞。
 潮のように兵が曳(ひ)いた場所は、戦場の中に突然生まれた真空地帯の如く不思議な静けさに包まれる。
 柿崎景家は、虫の息となった敵の先陣大将を見ながら立往生していた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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