よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 大きな円を描くように槍を薙ぎ払った信繁が、その余勢を利用して強引に手綱を引き、くるりと反対側に馬体を回す。
 ちょうど、二頭の馬が轡を並べるような格好になる。
 通常の馬上槍ならば、敵がそんな動きをするはずがなく、柿崎景家には何が起こったのかわからない。
 同時に、眼前の出来事と己が学んだ兵法の理(ことわり)が相反し、頭の中が真っ白になる。
 巴の形から相手に向かって馬を反転させれば、得物を持った手が外側に回り、攻撃が届かなくなってしまう。そんな馬鹿げた動きは、兵法の理合(りあい)としてはあり得ない。
 しかし、それこそが、信繁の狙いだった。
 愛駒を反転させた瞬間、恐るべき疾さで左手の手綱と右手の得物を持ち替える。まさに実戦でしか起き得ない動きである。
 だが、思いつきだけで、咄嗟にできる動きではなかった。
 信繁は常に実戦を想定し、このような秘技を日頃から修練していた。
 ─―瞬く間に、馬手(めて)と槍手が代わっただと!?……まさか!?
 驚愕(きょうがく)した柿崎景家の軆が硬直する。
 しかし、それは瞬きの間と呼ぶにも長すぎた。
 刹那。まさに、瞬きの十分の一ほどの時。睫毛(まつげ)が微細に震えるが如き間。
 それほど短い間に起こった出来事だった。
 しかも、さらなる不運が、柿崎景家の側に重なる。
 煌輝。相手が持ち上げた槍穂に天日の光が反射し、己の両眼を直撃した。
 柿崎景家は思わず眼を瞑りながらも、ただ勘のみを頼りに馬ごと体を捻(ひね)る。
 その肩口に激痛が走った。
 相手の繰り出した槍先が鎧を貫き、右の肩骨に突き刺さる。
 自ら体を捻っていなければ、まさしく首筋に必殺の一撃を受けていただろうという位置だった。
 切先が抜かれると血がほとばしり、さらに背筋まで痛みが走る。
「ぐわっ」
 苦痛の声を上げながら、柿崎景家は右の拳に力を込める。
 落としそうになった得物を握りしめ、顔を上げて敵を睨みつけた。
 相手の眼庇(まびさし)の下には、鋭利な輝きを放つ信繁の双眸(そうぼう)があった。
 それを見た刹那、柿崎景家は幽(かす)かな眩暈(めまい)を覚える。
 そして、観念した。
 永遠とも思えるような刹那の中で、武人として次に起こることは予測できていた。
 ─―相手は恐るべき疾さで、しかも正確に、己の喉仏を突いてくるであろう。相討ちを狙おうにも、同等の疾さで槍を持ち上げる力が右腕に残っていない……。
 時が永劫(えいごう)に引き延ばされ、柿崎景家の視界の中でゆっくりと信繁の左腕が動く。
 持ち上げられた槍穂が、天日の輝きを受け、血の斑(ふ)を交えて乱暴に煌めいた。
 同時に、敵味方の怒声が遠くへ霞んでいく。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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