よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 歩く間、気流の微細な動きを逃すまいと、頬に当たる朝靄がどの方角から来るのかに注意を払う。さらに時折、人差し指を舐(な)め、大気の流れを確かめた。
 ――西から東へと大気の流れがある。おそらく、これは山肌を滑昇する風に引っ張られているからであろう。ところが、払暁の頃には、いきなり風向きが変わるのだ。
 腕組みをした信繁は、頬にひんやりとした感触を覚えながら東側の上空を見上げる。
 まだ視界が定かではなく、山影さえ見えなかった。
 ――この靄は、われらが八幡原へ布陣するための大きな与力(よりき)となるであろう。これと同じ天候が続けば、越後勢がいかに山頂から警戒していようとも、おそらく、われらの軍勢が動いたことさえわからぬであろう。そして、昨日もそうだったが、日昇と共に突然、この風が東から西へと変わり、深い朝靄を消してしまうのだ。
 それを確かめるために、信繁はここ数日の間、陽が昇る時刻にこの場所を検分してきた。
 ――山中の奇襲隊が動くのは、丑(うし)の下刻終わり(午前三時)から寅(とら)の刻(午前四時)にかけてだ。時を同じくして、われらの軍勢が動けば、まったく相手に悟られることなく、この八幡原へ陣を布(し)くことができよう。奇襲隊が払暁前に攻めかかれば、敵は最も深い靄の中を逃げ回ることになる。そして、われらが布陣した場所から靄が消え始め、追い落とされた敵の姿をいち早く見つけることができるはずだ。すべてが己の想定のままに進めば、この戦(いくさ)、勝てる!
 信繁の脳裡(のうり)には、来たるべき戦模様が鮮明に浮かび上がっていた。
 その時、背後から声が響く。
「叔父上……」
 信繁が振り向くと、甥(おい)が立っていた。
「……義信(よしのぶ)か。いかがいたした?」
「朝方まで眠れず、城から外を眺めておりましたら、追手門(おうてもん)から叔父上が出ていかれる様が見えましたもので、いずこへ行かれるのかと」
「それで後をつけてきたというわけか」
「はい……」
 義信は頭を搔(か)きながら頷(うなず)く。
「朝の検分をしていた。毎日、こうして天気を確かめている。敵を知り、己を知り、天の気を知って味方とすれば、百戦危うからず」
 信繁の言葉に、若い義信は瞳を輝かせる。
「天の気を味方にすると」
「さよう。雨が降れば雨を供とし、霧が出れば霧を供として戦いを考えねばならぬ。毎日欠かさずに確かめてさえいれば、天気というものは読めるようになる。さすれば、己の与力とすることもできるようになるというわけだ」
「なるほど。ためになりまする」
「義信」
「はい」
「心気がささくれだって眠れぬのか?」
「はい……。横たわって眼を瞑(つぶ)りましても、何やら訳もなく気が急(せ)いて眠れなくなりまする。初陣の時よりも、落ち着きませぬ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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