よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「この身とて同じよ」
「えっ、叔父上が……。まさか」
「まことだ。先陣を預かるようになってから、戦いの前はほとんど寝つけぬ。眠れぬのならば、眠らぬまでよ。気に病まぬことだ」
 信繁は何の外連(けれん)もなく言葉を続ける。
「さような時はな、敵が動かぬとわかった日中に、うたた寝をすればよい。短い間に案外、ぐっすりと眠れる。兄上もよく、さようになされておるぞ」
 微(かす)かに笑った先陣大将の横顔を、義信は憧れの眼差しで見つめていた。 
「叔父上、実はひとつ、お願いがござりまする」
「何であるか?」
「やはり、この身を先陣の端にお加えいただけますよう、父上にお申し添えいただけませぬか」
 義信は両手を膝に置き、頭を下げる。
「そなたが直々にお願いすればよいではないか」
「一度、茶臼山(ちゃうすやま)の陣にて、お願いいたしました。されど、父上は返答を濁したまま、お許しをくださりませぬ。それで、叔父上の先陣にお加えいただけないかと……」
「さようか。されど、兄上が快諾をくださらぬのであれば、この身が願ったとて同じだ。許しをくださらぬ確かな理由がおありになるのだ。辛抱いたせ」
「……はぁ」
 信玄の嫡男は拳を握りしめて俯(うつむ)く。
 その様子を見た信繁は苦笑しながら問いかける。
「義信、なにゆえ、そなたは先陣へ出たい?」
「先陣こそが、武田の誉れと思いまする。それに、兵部の赤備も奇襲隊へ回ってしまいましたゆえ、手薄になった前線に出て、戦働きしとうござりまする」
「さような理由だけではあるまい。正直に本心を申してみよ」
 信繁は心根を見透かすように義信の両眼を見つめる。
 甥は視線を逸(そ)らし、しばらく黙っていた。
 それから、おもむろに口を開く。
「……家臣たちに守られるが如く、……父上の本陣にいる臆病者と思われたくありませぬ」
「さような杞憂(きゆう)であろうと思うたわ。義信、誰もそなたを臆病などとは見てはおらぬ。それどころか逆に、勝気が過ぎると思うておるのだがな」
 そう言ながら頭を搔いた叔父の顔を、甥は上目遣いで見る。
「この八幡原に布陣する兵が少ないこたびの戦では、そなたが兄上の側にいて守らねばならぬ。兄上の側から戦の大局を見渡せ。それを学んでからでも先陣へ出るのは遅くない」
 信繁は甥の肩を摑(つか)み、力をこめる。
 たったそれだけの仕草で、義信の背に雷が走り、叔父の言葉が魂魄(こんぱく)に響きわたった。
 二人の眼前は、朝靄が不思議な弧を描き始め、どこまでも広がっていく。
 信繁は腕組みをし、その光景を見つめる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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