よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ――四郎への厚遇や、一徳斎の手柄を聞き、少々焼き餅めいた思いを抱いてしまったのやもしれぬ。武田家の惣領を嗣(つ)ぐ者として、もっと冷静にならねば……。
 義信は気持ちを切り替え、面(おもて)を上げる。
「兵部、愚痴をこぼして、すまぬ」
「若、お気になされまするな」
「いまは余計なことを考えず、碓氷(うすい)筋(東山道〈とうさんどう〉)の敵城の攻略だけを考えよう」
「それがよろしいかと」
「まずは安中(あんなか)城と松井田(まついだ)城を落とし、甘楽郡の制覇を急ぎたい。なんとしても片付けるぞ。一徳斎に負けてはおられぬ」
 新たな目標を掲げ、武田義信は己の心気を制御しようとする。
 年は変わり、暦は永禄七年(一五六四)となっていた。
 義信が標的とした安中城と松井田城は、箕輪の長野家と深い縁戚にある安中重繁(かたしげ/忠政〈ただまさ〉)の拠点だった。
 重繁は本拠地であった安中城に加え、西に二里半(約十`)ほど離れたところに松井田城を修築する。その上で、嫡男の景繁(かげしげ)に安中城を譲り、自らは松井田城に入って防御を固めた。
 安中重繁は長野業正の妹を正室に迎え、嫡男の安中景繁には業正の娘を娶(めと)らせている。 加えて、業正の別の娘を養女とした上で、長野家の家臣、石井(いしい)信房(のぶふさ)に嫁がせるという念のいれようだった。
 つまり、安中家と箕輪の長野家には、切っても切れない結びつきがある。
 そのため、安中城と松井田城は、いまだに西上野の碓氷筋で武田家と反目していた。
 ――甘楽を制したわれらにとって、あの二つの城は目の上の瘤(こぶ)の如きものだ。安中城と松井田城を奪取すれば、佐久から碓氷峠を越え、西上野へ出る良い足場となる。
 義信はさっそく攻略の準備に取りかかった。
 この二つの城を攻める場合、最大の問題は箕輪城からの援軍だが、このところ大きな動きを見せていない長野家の動向を探るため、諜知頭の跡部信秋に諜知を依頼した。
 すると、跡部信秋の腹心である蛇若から驚くべき答えが返ってくる。
「どうやら、箕輪城の長野業正が身罷ったようにござりまする」
「まことか!?」
 義信は飯富虎昌と顔を見合わせる。
「だいぶ前に亡くなったことをひた隠しにしていたようにござりますが、すでに業正逝去の風聞が溢(あふ)れ返っておりまする。それを聞きつけ、一徳斎殿も岩櫃城へ攻め寄せたとのこと」
「なるほど!」
 義信が膝を打つ。
「それゆえの羽根尾城や岩櫃城の急襲であったか。合点がいった。兵部、これはわれらにとっても、またとない好機ぞ。箕輪城からの援軍がないとわかれば、安中城と松井田城など怖れるにたらずだ」
「確かに」
 飯富虎昌も同意する。
「蛇若、よくやってくれた」
「有り難きお言葉にござりまする」
「よし、一気に二つの城を攻めるぞ!」
 義信は碓氷筋への出陣を決断した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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