よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   八十一

 松山城攻略の一報を聞いた真田(さなだ)幸隆(ゆきたか)は、すぐに吾妻郡の鎌原(かんばら)城へ向かった。
 鎌原幸重(ゆきしげ)に命じて手子丸(てこまる)城の浦野(うらの)重成(しげなり)、大戸平(おおどひら)城の大戸(浦野)重俊(しげとし)を集める。
「御屋形様が松山城を落としてくださり、大きく状況が動いた。今こそ、われらが吾妻を制する好機と考える」
 真田幸隆の言葉に、一同が頷く。
「いよいよ羽根尾(はねお)城を攻めまするか?」
 鎌原幸重の問いに、幸隆は首を横に振る。
「羽尾(はねお)道雲(どううん)の羽根尾城だけではなく、斎藤(さいとう)憲広(のりひろ)の岩櫃(いわびつ)城も落とし、一気に吾妻郡の全域を制覇いたす」
「おおっ!」
 浦野重成と大戸重俊が顔を見合わせ、思わず声を上げる。
「われらにとって朗報が二つある。そのひとつが上杉輝虎に関するものだ。松山城を囲まれたことを知った輝虎は坂東へ出張ったが、その救援はまったく間に合わず、城将の上杉憲勝が降伏した。その腹いせに、輝虎は叛旗(はんき)を翻していた武蔵国埼玉郡の騎西(きさい)城と忍(おし)城に攻め寄せ、これらを落としたらしい」
 幸隆が言った騎西城と忍城は、黒川を挟んで松山城の西側に位置する城である。
 騎西城の城主は坂東の名門、成田(なりた)家から小田(おだ)家への養子に入った小田朝興(ともおき)だった。
 そして、忍城々主は小田原城攻めの際に上杉輝虎、当時の長尾(ながお)景虎(かげとら)から無礼打ちされた成田長泰(ながやす)であり、これを機に成田一門は関東管領の麾下(きか)から離れていた。
 その二つの城を輝虎が攻め落としたという。
 さらに永禄六年(一五六三)四月には、下総国(しもうさのくに)へ出張り、離反していた唐沢山城の佐野(さの)昌綱(まさつな)を降伏させ、その勢いを駆って下野国の小山(おやま)城を攻め、小山秀綱(ひでつな)をも降伏させる。
 輝虎は下総国に戻り、小山秀綱の弟である結城(ゆうき)城々主、結城晴朝(はるとも)を降伏させ、坂東で北条側につこうとしていた勢力を駆逐した。
 それでもまだ坂東の情勢は大きく揺らぎ、不安定だった。
「輝虎が無理に東へ進軍したせいで、背後は完全にがら空きとなった。その虚を衝(つ)くように、御屋形様が海津(かいづ)城の香坂(こうさか)殿に信濃(しなの)の飯山(いいやま)城へ攻め寄せるようお命じになった。おそらく輝虎と越後勢は泡を喰って越後へ戻らざるを得なくなるであろうて。それに加えて二つ目の朗報がある」
 幸隆はにやりと笑う。
「われらの忍びの者が調べたところによると、どうやら箕輪(みのわ)城の長野(ながの)業正(なりまさ)が身罷(みまか)ったようだ」
「まことにござりまするか!?」
 鎌原幸重が眼を見張る。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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