「なるほど……」 「笛と装束に関する智識を教示することは、やぶさかではありませぬ。されど、あくまでそれは下地の下地。まことに御公家の生活が知りたいのならば、以前お勧めした源氏物語を真剣に通読なされてはいかがにござりまする。そこには笛や装束に関することも詳細に描かれておりますので、他の家業との兼ね合いもわかりましょう。なにより、そこには生き生きとした女心が記されておりまする。もちろん、平安朝の頃と当世では、だいぶ事情が違いますが、公家の理や仕来り、男女の機微などはさほど大きくは変わらぬものと存じまする。決して無駄にはなりますまい」 「古今集に、源氏物語か……。学ばねばならぬものが多すぎる……」 「その下地を創った上で、御方様に笛や装束に関して教えていただけばよろしいのではありませぬか」 「教えを請う? ……あまりにも無知に見え、漢(おとこ)として恥ずかしくはなかろうか?」 「にわかの智識をひけらかすよりは、わからぬことをわからぬとして、潔く教えを請う方が漢らしいのでは。それに見知らぬ土地に嫁いできた女人は、己の伴侶が家業に興味を抱いてくれることが嬉しいのではありませぬか。晴信殿が甲斐での暮らし方を教え、御方様に笛や装束をはじめとした京の都のことなど教えていただく。互いにないものを補い合う。それが夫婦の睦み合いというものになるのではありますまいか。妻帯もしたことのない拙僧が申すのはおこがましゅうござりますが、夫婦だけに限らず、人と人の関係というものは、そのようにして築かれていくのでは」 岐秀禅師の言葉が、晴信の心を打つ。 ――この身は京の公卿の御息女と聞いただけで、のぼせ上がり、勘違いしていたようだ。己のことしか考えていなかった。気が重いというならば、この身ではなく、むしろ先方であろう。それをほぐして差し上げなければならぬ。二度と同じ過ちを繰り返さぬように……。 そう思ってから、少し気が楽になった。 「御師、有り難うござりまする。大変、勉強になりました」 「御無礼の段は、お許しくださりませ」 「また、源氏物語の解釈など訊ねにまいりまする」 「それまでに、拙僧も復習しておきましょう」 「では、失礼いたしまする」 晴信は信方を伴って長禅寺を出た。 すっかり陽が沈みかかっており、暮方の斜光があたりに黄金の輝きを与えている。 「何だか、大変なことになりそうだな」 晴信が苦笑しながら呟く。 「まことにござりまする。今さら古今集の修学をせねばならぬとは思いませなんだ」 信方も顔をしかめる。