二人は長禅寺(ちょうぜんじ)へ出向き、まずは岐秀元伯(げんぱく)に歌会の開催を伝え、講話を願う。 「お話はわかりました。五山は和歌よりも漢詩を嗜(たしな)む者が多く、拙僧もそうでありましたが、和歌については智識(ちしき)として覚えのあることならば、相応にお伝えできまする。ところで、いつもより御二方の気配が硬うござりますが、何かありましたか?」 柔和な風情で岐秀禅師が訊く。 「……いえ、取り立てて……何も」 信方が困ったように頭を搔く。 「われらは武骨ゆえ、歌会のような風雅事に戸惑うておりまする。……特に、この板垣が」 咄嗟(とっさ)に晴信も取り繕う。 ――特に武骨? ……この身が? ……確かに、若にはさようにお答えしたが、この場で言わなくとも。 傅役が横目で小さく睨(にら)む。 「さようにござりましたか」 岐秀禅師は二人の顔を見比べてから微笑する。 「では、御二方が歌会にて粗相なきよう、拙僧が学びましたことはすべて、お伝えいたしましょう」 「お願いいたしまする」 晴信と信方は声を揃えて頭を下げた。 「歌会はまだ平城京が都であった奈良朝の頃から盛んになりましたが、その作法が固まり始めたのは平安京に遷都して題詠(だいえい)という会の形式が定まってからといわれておりまする。これは読んで字の如く、あらかじめ決められた御題に従って歌を詠(よ)むもの。こうした作法は元々、自然の風物を対象とする詩題の詠物(えいぶつ)が多かった漢詩によって確立され、さらに歴史上の人物や事件などを詠む詠史題(えいしだい)、子夜歌(しやか)や塞下曲(さいかのきょく)のような楽府(がふ)題などへ広がっていきました。和歌もこれに倣(なら)い、四季折々に会を開き、決められた題の中で花鳥風月を詠むようになりました。されど、その時々に観賞する風物だけを歌にしていたのでは会を開く機会が限られ、自ずと作品が単調になりますので、新たな形式が生み出されました。それが、屏風(びょうぶ)歌というものにござりまする」 「屏風歌!?」 晴信と信方が顔を見合わせる。 「はい。詠作を屏風に描かれた絵を主題として行う手法にござりまする。これならば季節に縛られることなく、たとえば寒さの厳しい真冬の歌会でも春に想いを馳せる題詠がしやすくなり、暑さの厳しい真夏に冬の歌を詠んで涼を取ることもできまする。何よりも詠み手の想像の力が鍛えられ、詠作の幅は大きく広がったのではないかと。それだけではなく四季、二十四節気、七十二候を主題とした月次(つきなみ)屏風歌の会や名所、歌枕を主題とした名所屏風歌の会なども行われるようになり、わざわざ歌会のために新作の倭絵(やまとえ)屏風が描かれるようにもなりました。屏風歌の会は詠作だけでなく、絵と歌を同時に賞翫(しょうがん)する趣向となり、歌会で賞賛された和歌の色紙を倭絵屏風に貼り付けたものが、祝賀や調度の品として重宝されるようになりました」 「なるほど……。京から届けられた、さような屏風を御屋形様の室へ運び入れたことがござりまする」 信方が感嘆の息を漏らす。