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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志11 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 ――理由はどうあれ、信秋が若を見据えながら、役目をこなそうとしていることは素直に歓迎すべきであろう。あ奴も次郎様を担ぎ出そうという輩(ともがら)がいることを承知の上で動いているのだろうから、かような機会に味方を増やしておくことも大事だ。
 そう考えていた信方に、不安そうな面持ちで晴信が問いかける。
「板垣(いたがき)、もしも、このまま天気がよくならなかったら、戦(いくさ)はどうなっていくのであろうか?」
「……雨が雪に変わったりするようならば、退陣も考えねばなりますまい。されど、出陣した以上、何の成果も上げずに撤退すれば、この出兵は何であったのかという疑念が家中に渦巻き、後に禍根を残すことともなりましょう」
「戦というものが……戦というものが、これほどまで天気に左右されるとは、正直、思うていなかった。さりとて、この身にはいかんともし難い。ただ、無力だ……」
 低く垂れこめた曇天を見上げてから、晴信は自信を失ったように俯(うつむ)く。
「合戦には天の時、地の利、人の和が常につきまとうという教訓を学んだ。それを理解したつもりでいたのだが……。戦場での重みは、まったくわかっていなかったとしか言いようがない……」
 着慣れない具足の重さ以上に、見えない重圧が晴信の両肩にのしかかっているようだ。
 その様子を見た信方が気合を入れるように言う。
「若、お気持ちはお察しいたしまする。されど、一軍の将が己の力ではいかようにもならぬことに一喜一憂していては、士気の低下を招きかねませぬ。ここはひとつ、なるようにしかならぬと居直り、泰然と好機を待つことも大事かと」
「そうも思うたが、先の事を考えると居ても立ってもおられぬ。このまま退陣となってしまっては……」
「撤退となったからとて、何もできぬわけではありませぬ。万が一、御屋形(おやかた)様が退陣を口になされた時は、かように進言なされませ」
 信方は晴信に何事かを耳打ちする。その話に何度も小さく頷(うなず)き、思い直したように顔を上げた。
「……わかった。そなたの申す通りにする。己の動揺で兵を不安にさせるわけにはいかぬ」
「天の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如かず。孟子(もうし)もさように教えているではありませぬか。天の時と地の利がまだ満ちておらぬならば、まずは人の和、兵の士気を保って機が満ちるのを待ちましょう」 
 信方は孟子の訓戒を用いて晴信を落ち着かせようとした。
 天時不如地利。地利不如人和。
 すなわち、「天の与える好機も地勢の有利には及ばず、地勢の有利も民心の和合には及ばない」という意味だった。
 翻って考えれば、天の時を得ていても地の利がなければ物事を成就することはできず、地の利を得ていても人の和がなければ、これまた成功には至らないということになる。つまり、「天時、地利、人和」のすべてが揃うことこそ、勝利への必須条件なのである。
 そして、兵法を学ぶ者は孫子(そんし)に加え、孟子の説く「天、地、人の合一」こそが合戦の要だと最初に教えられた。
 ――板垣が言う通り、今は我慢の時だ。ただ奥歯を嚙みしめ、動ぜぬように天の気の好転を待つ。
 晴信は己にそう言い聞かせ、心気を刷新した。とにかく、合戦として最初の動きが取れるようになるまで辛抱強く待つしかない。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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