「余には嚮導などいらぬ。この辺りは勝手を知りたる地だからな。諏訪勢は残った兵たちのために道案内でもしてくれ」 冷笑とともに、頼重の申し出を一蹴する。 「……はっ。承知仕(つかまつ)りました」 諏訪頼重は素直に引き下がるしかなかった。 それを見た晴信が意を決して挙手する。 「御屋形様!」 「何であるか、勝千代(かつちよ)」 「お願いがござりまする」 「今さら願いとは、何事か?」 信虎は長男に怪訝(けげん)な眼差しを向ける。 「退陣ということならば、是非とも、それがしに殿軍(しんがり)をお命じくださりませぬか」 晴信の申し出は、信方から耳打ちされた最後の秘策だった。 それを聞いたほとんどの者が驚愕(きょうがく)した後に眉をひそめた。 初陣に臨んだ長男が、退陣に際して殿軍を受け持つ。通常ならば、あり得ないことだったからである。 「何を言い出すかと思いきや、殿軍とはな。いったい、何の酔狂であるか?」 「初陣の機会を与えていただきながら、ここまで何の戦働きもできませなんだゆえ、せめて殿軍をお預かりすることで、お役に立ちとうござりまする」 「ふっ。殊勝な物言いに聞こえるが、何のことはない、己の悪運に祟られた戦の帳尻を殿軍の務めで合わせようということか。されど、そなたは大事なことを忘れておらぬか。先ほど余は、この雪ゆえ城兵もわざわざ追撃には出てくるまいと申したが、われらのほとんどが退陣を終え、わずかな兵しか殿軍に残っておらぬと見れば、容赦なく打って出てくるぞ。わずかな手柄でも欲しいのは、敵の将兵も同じだからな。つまり、総軍を無事に退却させようとすれば、殿軍が全滅するということもあり得る。勝千代、そなたはそれを承知の上で申しているのであろうな?」 「はい、覚悟の上で申し上げておりまする」 晴信はきっぱりと言い切った。 「ほう、覚悟とな。そこまで虚勢を張るならば、止めはせぬ。殿軍でも何でも勝手にいたせ。誰の入智慧(いれぢえ)か、想像に難くはないが、戦の手仕舞いを甘く見ると痛い目に遭うぞ。痛いと啼(な)き喚(わめ)くだけで済むならば、まだましな方だが、孫子も暗誦(あんしょう)できぬ骸(むくろ)となって戻るのでは笑い話にもならぬ。せいぜい気を付けることだな」 あまりに冷酷な言葉だった。 「……今の御言葉、しかと肝に銘じておきまする」 晴信は声を振り絞って答える。 「後の事は、常陸と話すがよい。われらは新府へ戻るぞ」 三白眼となった信虎が息子を一瞥(いちべつ)もせず、床几(しょうぎ)から立ち上がる。 こうして慌ただしく武田勢の退陣が始まった。