よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 この式三献は、出陣や婚儀の際にも行われるが、元旦の盃事は家長が身内の者たちを労(ねぎら)うための儀式だった。
 そのため、漢(おとこ)たちの儀が終わったならば、次に家内を守る女房たちを労い、三献が振る舞われる。
 そして、最後に家長が三献を行うのだが、この時は長男が親の長寿を祈りながら注ぐのが通例だった。
 もしも、長男が幼すぎる場合には、家長の兄弟などが行うこともあり、これまでは弟の信繁が務めてきた。
 しかし、この日初めて、太郎が大役を務めることになったのである。
 晴信が着座し、三条の方の手で屠蘇台が運ばれた。
 太郎は強(こわ)ばった面持ちで屠蘇台から銚子を持ち上げる。
 その様子を見た三条の方が息子に耳打ちする。
「……そび、そび、ばび」
 それを聞いた太郎がぎこちなく頷(うなず)いた。
 三条の方が囁いた「そび、そび、ばび」とは、「鼠尾、鼠尾、馬尾」を意味し、三献を注ぐ時の要領を示している。
 鼠尾は文字通り鼠(ねずみ)の尾ぐらいに細く短く、馬尾は最後だけを太く長く注ぐのである。
 晴信は神妙な面持ちで小盃を取り上げる。
 その前に、長柄銚子を持った太郎が立った。
「……つ、つつ……」
 口上を述べようとした息子が言葉に詰まり、棒立ちになる。
 それを見た晴信は微(かす)かな笑みを浮かべる。
『落ち着きなさい。いつもと同じで構わぬ』
 そんな意味をこめた眼差しを送った。
 太郎は軽く眼を閉じ、気息を整えてから再び口を開く。
「つつしんで、しんしゅんの……ことほぎをもうしあげまする。……いちもん、いちどうをだいひょうし、……ええと……おやかたさまの……ごけんしょうと……ごぶうんを……きねんいたし、……さんこんをさしあげまする。……みはた……たてなしも……ご、ごしょうらんあれ。どうぞ」
 必死で覚えた口上を述べ、太郎は微かに震える手で長柄銚子を差し出す。
「謹んで、頂戴いたしまする」
 晴信は両手でうやうやしく小盃を掲げる。
 太郎は心の中で「そび、そび、ばび」と唱えながら屠蘇を注いだ。
 受けた晴信がそれを三度で吞み干し、中盃、大盃と繰り返され、滞りなく式三献が終了する。
 太郎は無事に大役を務め終え、紅潮した顔で眼を潤ませていた。
 その姿を、三条の方が安堵(あんど)したように見つめている。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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