「若、実は御屋形様から直々の御下命がありまして、少しの間、新府を離れなければなりませぬ。しばしの暇をお願いに上がりました」 「どこへ行くのだ、板垣?」 晴信は驚いた顔で訊く。 「ええ、その……南巨摩(みなみこま)の辺りにござりまする」 信方はそらを向きながら言葉を濁す。 「ならば、今川家の内訌に関係することではないのか?」 晴信の勘は鋭かった。 「ええ、まあ、そのような……」 「いま駿府では今川氏輝殿の跡目を巡って家中が二つに割れ、三男の玄広(げんこう)恵探(えたん)殿と五男の栴岳(せんがく)承芳(しょうほう)殿が争っていると聞く。京の公方様は承芳殿を後継者と認め、偏諱を授けて今川義元殿と名乗っているという。どうも、その義元殿の側が優勢らしいが、だいぶ激しい戦になっているようだな」 「若、なにゆえ、さように詳しく事情を御存知なので?」 「昨日、講義の後で御老師から教えられた。最も眼を離せぬ隣国のことであるから、当然のことではないか」 「さようにござりまするが……」 「もしかして、板垣。内訌の奇禍(きか)が甲斐へ及ばぬよう、駿河との国境に兵を出せと父上に命じられたのではないか?」 的を射た晴信の問いに、思わず信方は黙り込む。 それでも、嘘を言うわけにはいかなかった。 「……そのような次第にござりまする」 「ならば、行先は昨年、戦となった万沢ではないのか?」 「お察しの通りにござりまする」 「それならば……この身も出陣する」 晴信は思い詰めた顔で言う。 「父上にお願いし、初陣としていただく。元服を済ませた身で、武田の危機に指を銜(くわ)えておるわけにはいかぬ。そなたが出陣するのであれば、尚更のことだ」 「いいえ、それはいけませぬ。若の初陣は、もう少し筋の良い戦でなければなりませぬ」 信方が制止する。 「筋の良い戦?……こたびは、さほどに難儀な役目ということなのか」 「いや、それは……。前にも岐秀禅師が囲碁のことで申されていたように、戦いには筋の良いものと筋悪のものがありまする。今川家の内訌に関わるなど、それだけで決して筋が良いとはいえませぬ。こたびはそれがしにお任せくださりませ」 「そなたがそれほど頑なに拒むならば、余程の事情があるのだな。この身に何か隠しておらぬか」 「何を申されまするか。それがしは若に隠し事などいたしませぬ」 「いや、そなたの鼻の穴が開いておる。何かをごまかそうとする時、だいたい、そなたはいつもより鼻の穴が開くのだ。自分では見えぬから、わからないであろうが、この身にはよくわかっておる。板垣、いったい何を隠しているのだ?」 晴信は真っ直ぐに傅役の両眼を見つめる。 「……隠しては、おりませぬ。されど、こたびはまことに筋の悪い出兵にござりまする。それがしは若に出張ってもらいたくありませぬ」 「ならば、訳を教えてくれ。二人の間で隠し事はしないと約束したではないか」 「……わかりました。お話しいたしますゆえ、隠し事を疑うのはお止めくださりませ」 信方は仕方なく役目の内容を話し始める。 ほぼ全容を晴信に伝えたが、最後の汚れ仕事についてだけは伏せておいた。とても話をする気になれなかったからである。 「さような訳で、岐秀禅師を訪ね、事情を伺わねばなりませぬ」 「わかった。ならば、それがしも一緒に行こう」 「若ぁ……」 「今川家が代替わりするのだ。内情を掴んでおくことが必要ではないか」 「わかりました。では、一緒にまいりましょう」 信方は渋面で頷く。 そして、二人は岐秀元伯に話を聞くため、長禅寺へ向かった。