その長い講話が終わる頃になっても、今川館に寿桂尼の一行は戻ってこなかった。 「母上の戻りが遅すぎる。何か、あったのではなかろうか」 帰りを待ちわびていた義元が不安そうな面持ちで呟く。 「確かに、折衝するだけにしては遅うござりまする。用心のために館の守りを固めておいた方がよいかもしれませぬ。警固役の元長(もとなが)殿と話をしてまいりまする」 雪斎が冷静な口調で進言する。 「されど、母上は……」 「ご案じ召されまするな。いくら福島の者どもとて、大御台様にはおいそれと手出しはできますまい。それに朝比奈殿と岡部殿もご一緒にござりまする」 雪斎が言った朝比奈殿と岡部殿とは、氏親と氏輝の二代に仕えてきた宿老、朝比奈泰能(やすよし)と岡部親綱(ちかつな)のことであり、家中でも指折りの剛の者である。 「何もなければよいのだが」 義元はそわそわと室内を歩き廻る。 「とにかく落ち着かれませ。家臣に動揺を見せてはいけませぬ。しばし、失礼をばいたしまする」 雪斎は室(へや)を出て、館の警固をしている朝比奈元長の処へ向かった。 「丹波守殿、大御台様の帰りが遅すぎませぬか。行先から何か連絡はありましたか?」 「まだ、ありませぬ。それがしも心配していたところにござる。少し気になることもあったゆえ、館の周辺に物見を出しておりまする」 「泰能殿と親綱殿もご一緒ゆえ、大御台様のご無事は間違いないと思いまするが……」 「大御台様は京の公方様から頂いた御重書(おかさねがき)を示しに行かれただけであり、先方が乱妨狼藉(らんぼうろうぜき)を働くとは思えませぬ」 寿桂尼は京の公方、足利義晴(よしはる)から遣わされた重書を玄広恵探と福島越前守に見せ、事態を収拾しようとしていた。 重書とは、公方の義晴が義元に偏諱の授与を行い、幕府が今川家の相続を安堵(あんど)するという旨を認(したた)めた文書のことである。今川家のような名門における相続は、公方と幕府の認可、加えて御主上(みかど)への奏上と朝廷の許しがなければ認められない。 清和源氏の中でも上流にあたる今川家の主筋は、京の足利公方家であり、義晴から偏諱の一字をもらって直臣と認められることは最も重要だった。 寿桂尼は「すでに京の公方が義元を後継者に認めた」ということを示し、福島一統の矛(ほこ)を収めさせようとしたのである。 「されど、泰能殿は短気なところがあるゆえ、越前殿と揉めねばよいのだが……」 苦笑しながら、そう言った元長は駿河朝比奈家の二代目当主である。 一方、短気だと評された泰能は、遠江朝比奈家の当主であり、今川重臣の中でも長老格だった。 朝比奈家は駿河と遠江の二流に分かれ、今川領の要衝を支配しているが、先々代の氏親が相続した時には一族の中で対立が起きたこともある。今回は幸いにも双方が義元の側に付いていた。 朝比奈元長は雪斎と年齢も近く、庵原に領地を持っていることから、二人の関係は良好だった。