家中では花倉の遍照光寺(へんじょうこうじ)にいる三男の玄広恵探を還俗させ、新たな惣領にするという案が浮上した。 だが、それを止めようと動いたのが、惣領代行となった寿桂尼だった。 「今川家の正統を守るため、後継は正室の子にすべし」 太原雪斎の助言を受け、寿桂尼は五男の栴岳承芳を還俗させて跡を嗣がせるべく、重臣たちに働きかけたのである。 主だった重臣がその案に賛同し、承芳は還俗して元服の儀を執(と)り行い、京の公方(くぼう)から偏諱(へんき)を賜り、今川義元(よしもと)と名乗ることになった。 これに猛反発したのが、玄広恵探の身内であった福島家である。遠江(とおとうみ)に勢力を持ち、甲斐や信濃を睨んでいた福島越前守基重(もとしげ)は恵探を擁立し、敢然と寿桂尼に対抗する姿勢を見せた。 そして、この日、寿桂尼が福島一統を説得するために花倉へ向かっていた。 結果を待つ間、今川館は重苦しい雰囲気に包まれた。 その奥殿で二人の漢(おとこ)が向き合っている。 「……御師、母上は上手に、お話をまとめてくださるでしょうか?」 二引両(ふたつひきりょう)の大紋直垂(ひたたれ)を身に纏った今川義元が不安げな表情で訊く。 その面立(おもだ)ちにはまだ幼さが残り、直垂もどこか不似合いな感じがする。それもそのはずで、義元はまだ齢十八であり、還俗したばかりで髷(まげ)も結えない剃頭(ていとう)だった。 「いかに重臣の福島家といえども、大御台(おおみだい)様の御意向を無視することはできますまい。されど、楽観はしておられませぬ」 答えたのは墨染めの僧衣を纏った太原雪斎である。 雪斎は幼い頃から臨済宗の山門へ入り、京五山の建仁寺(けんにんじ)で将来を嘱望された秀才だった。その話を聞きつけた今川氏親が臨済宗に入った五男の傅役を依頼したのだが、雪斎の両親はともに今川家譜代の重臣である。 父は庵原(いはら)政盛(まさもり)といい、駿府の膝元である庵原一帯を治める一族であり、母は横山城々主である興津(おきつ)正信(まさのぶ)の娘だった。興津家は文字通り興津の湊(みなと)を本拠に水軍を率い、駿河の海運を掌握している。そういった意味では、武門と山門の双方を知り尽くした雪斎ほど、義元の傅役にふさわしい者はいなかった。 「……やはり、福島家はあくまでも恵探殿を担ぐと?」 「福島一統は身内から今川家の次なる惣領を出したいというのが本音でありましょう。そうでなければ、彦五郎様まで亡くなることはありますまい」 「まさか……」 義元は少し怯(おび)えたような表情になる。 「……御師は福島家が兄上たちを仕物にかけたとお考えにござりまするか?」 「確証を摑(つか)んでおらぬ以上、断言はできませぬ。されど、彦五郎様が亡くなった時に誰が最も得をするのかを考えれば、答えは明白にござりましょう」 雪斎はこともなげに答える。 彦五郎の逝去でいきなり後継者に浮上してくるのは、三男の玄広恵探。 確かに福島家の身内であり、恵探が今川家を嗣げば一門衆に加わることができる。 「われらが京から駿府へ戻ってきた途端、氏輝様が亡くなられたことさえ怪しいと思うておりまする。小田原での御歌会へ参られた後となれば、なおさらのこと」 雪斎が言った通り、今川氏輝は先頃、公卿(くぎょう)の冷泉(れいぜい)為和(ためかず)と一緒に相模へ赴いている。北条家の本拠地である小田原城で歌会を開くためだった。