五 甲斐の新府が「今川花倉の乱」の風聞で持ちきりになっている中、板垣(いたがき)信方(のぶかた)は主君から直々の呼び出しを受けていた。 緊張した面持ちで額(ぬか)づく家臣の前に、大股で武田信虎が現れ、大上座に腰を下ろす。 「信方、待たせたな。面を上げて、楽にせよ」 「はっ。有り難き仕合わせにござりまする」 信方は顔を上げ、背筋を伸ばす。正座したままであり、緊張を解いたりはしない。 「今川の内訌の話は存じておるな?」 「はい。惣領とその弟が急逝し、僧門にいた三男と五男が跡目を争うていると聞いておりまする。それがしが耳にしたところによりますれば、今川家の大方は先代の正室、寿桂尼が推す五男を支持しているのではないかと」 「まあ、だいたい、そんなところであろう。されど、小童(こわっぱ)の氏輝が死んだ途端、坊主の小童同士で跡目を争わねばならぬとは、今川家も落ちたものよ。片腹痛いわ」 信虎は口唇の端を吊り上げ、鼻で笑う。 「ともあれ、当家にとっては吉報に違いあるまい。昨年の戦が嘘のようであるな。世の中には、まだまだ面白い話が転がっておる」 主君の言葉を聞き、信方は厭(いや)な予感にかられる。 敵が真っ二つに割れている時が、われらにとってまたとない好機よ。今こそ駿河を総攻めすべし! 主君の口から、そんな言葉が飛び出しそうに思えたからだ。 「実はな……」 信虎はにやりと笑う。 「……ついに、今川が尻尾を振ってきたぞ。優勢となっている五男の今川義元とやらが、当家にこたびの戦の与力を頼んできたのだ。お願いを叶えていただいた暁には、新しき惣領と武田家の間で和を結びたく存じまする、だと。ぶぁはっはっはっはぁ……」 皮肉な笑みが、突如として高笑いに変わった。 信虎は腹を押さえ、扇で脇息を連打する。おかしくて仕方がないという有様だった。 しかし、信方は咄嗟(とっさ)に主君の言葉が理解できずに固まってしまった。普通に考えれば、あり得ない事柄だったからである。 「……なんだ、信方。その仏頂面は?」 「あ、いえ……」 「この話で笑えぬならば、そなたはいつ笑うのだ。ああ、愉快極まりない」 上機嫌な声を発し、信虎はまだ笑い続けている。 「……申し訳ござりませぬ。生来、不器用者ゆえ、御主君の前での笑い方がわかりませぬ」 「仕様のない奴だな。これまで当家に楯突き続けてきた今川家が、仔犬の如く余に尻尾を振ってきたのだぞ。これを笑わぬでどうするか」 「それは承知しておりまするが……」 信方は強ばった笑顔を作ってみせる。 それとは裏腹に、厭な予感はさらに増していた。普段は相好を崩したこともない主君があまりにも上機嫌だったからである。