よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「その者を捕らえよ! 逃がすでないぞ!」
 信玄が傷だらけになった軍扇を振り、鬼の形相で咆哮した。
 槍を手にした武田の兵が一斉に殺到する。
 ─―千載一遇の機を逃すようでは、この戦、余の負けやもしれぬ……。
 上杉政虎は口唇の左端を吊り上げ、自嘲の笑みをこぼす。それでも、群がる敵兵を正確な一撃で倒してゆく。
 そこへ、やっと政虎の馬廻衆が駆けつける。しかし、その数は激減し、たった五騎となっていた。この陣中に入ってから武田の兵に討ち取られてしまったからである。
 いや、よく見れば、駆けつけたのは馬廻衆だけではなく、意外な人物が交じっている。総軍を撤退に導いているはずの宇佐美定満だった。 
「御屋形様!」
 顰面の老将が叫ぶ。
「われらが楯となりますゆえ、その間に退陣を!」
「宇佐美、なにゆえ、ここへ参った……」
「他の者たちは、すでに退陣を始めておりまする! 御屋形様が最後のお一人じゃ!」
「さようか。宇佐美、すでに犀川への退路はない! 敵中を突き抜け、活路を開くぞ! 余についてまいれ!」
 政虎は愛駒の腹を蹴る。
 絶体絶命の危機だった。それでも武神は死中に活を求め、疾風の如く駆け出す。
 たった五騎がそれに続く。
 しかも、一団が目指したのは、直江景綱が待つ丹波島(たんばじま)の渡しとは正反対の方角である。
 上杉政虎の視線の先には、千曲川と海津城があった。
 止めの一撃を信玄にかわされ、戦いの行方は一気に政虎の予断を許さない局面へと突入する。
 この時、戦の趨勢(すうせい)が、はっきりと変わった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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