第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「おのれ! 馬さえあれば、造作もなき追走なのだが……」
飯富虎昌は口惜(くや)しそうに何度も拳を掌(たなごころ)に打ちつけた。
そこへ下山してきた馬場信房が加わる。
「方々、千曲川(ちくまがわ)の水嵩(みずかさ)もさほどのものではないゆえ、一気に渡河いたしまするか?」
「おう、迷うこともなかろう。よいな、一徳斎殿」
そう言いながら、飯富虎昌は真田幸隆の表情を窺(うかが)う。
「異存ござりませぬ」
やっと三隊が合流した武田奇襲隊の九千余は、急遽(きゅうきょ)、雨宮の渡しへと向かう。
周囲は暁に照らされ、河面の上にうっすらと懸かっていた朝靄(あさもや)も西へ流されながら消えてゆく。
真田幸隆の命を受け、まずは百足衆が土手から水の中へ下りる。
その刹那、だった。
突然、対岸で豆を煎るような乾いた音が炸裂(さくれつ)する。
何かが、薄帛(うすぎぬ)の大気を切り裂く。
瞬きをする間もなく、夥(おびただ)しい数の黒い塊が飛んできた。
それが水に足を踏み入れた足軽たちの肩や胴を射抜く。攻撃をくらった者たちは、次々と川縁(かわべり)まで吹っ飛ばされる。
辺りに血煙が広がった。
その後方では、何が起こったかわからぬまま、九千余の武田奇襲隊が立ち竦(すく)む。
「……ひえぇ」
かろうじて難を逃れた足軽たちが悲鳴を上げながら川縁から戻ろうとする。
さしもの百足衆も、いきなりの攻撃には動揺を隠せなかった。
「て、鉄炮(てっぽう)だ! 敵が鉄炮を撃ってきたぞ!」
それを聞いた真田幸隆は対岸を凝視する。
視界には、土手の陰から現れた鉄炮の筒先が並んでいた。
「退け! いったん、川縁から退け!」
思わず己も後ずさりしながら幸隆が叫ぶ。
撃たれた仲間の軆を引きずり、百足衆がほうほうの体で川縁を離れた。
総軍が千曲川の岸から後退し、態勢を立て直そうとする。
しかし、待ち伏せによる攻撃で、明らかに武田奇襲隊は混乱していた。
その様を、対岸から冷静な瞳で見つめる者がいた。
越後勢の殿軍(しんがり)大将、甘粕(あまかす)景持(かげもち)である。
その眼前には、根来筒(ねごろづつ)を構えた鉄炮足軽隊がいる。
「よし、間髪を容(い)れずに、次の渡河へ備えよ! いつでも撃てる構えを取るのだ!」
采配を握っていた甘粕景持が鉄炮隊に命じる。
五十名の射手を横一列に並べ、土手の陰に伏せて敵を待ち構えていたのである。
射手の一人一人には、火縄を持った者と玉籠(たまごめ)役の二名を付き添わせていた。
火縄を持った者は火種を絶やさぬよう、常に縄を振り回している。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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