第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「またしても、月毛に行人包だと!」
原昌胤が眉を吊り上げる。
「まったく人を小馬鹿にいたすのもいい加減にせぬか! そなたは己の眼で行人包の姿を確かめたのか?」
「あ、いえ……。それを見た者がいると……」
詰問された伝令は恐縮しながら答える。
その答えを、信玄は一笑に付す。
「越後では総大将の装束をずいぶんと安売りしておるようだな」
「まったくもって笑えませぬ!」
原昌胤は憤懣(ふんまん)やるかたない面持ちで吐き捨てる。
「よし、兵部たちと合流したならば、一気に敵を駆逐いたすぞ!」
精気を取り戻した信玄が力強く下知する。いよいよ、己が立ち上がる機が迫っていた。
武田の総大将は大きな息吹をし、丹田に力を込める。
その刹那、だった。
けたたましい蹄音(ていおん)が幔幕内に響く。
夥しい土煙。それを突き破り、月毛の騎馬が、信玄の遥か前方に躍り出る。影さえも追い付かないのではないかと思えるほどの疾さだった。
その鞍上に、白妙の行人包。紺絲緘(こんいとおどし)の当世具足に萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣を羽織った武者が見える。
埃の壁を破って現れた騎馬武者が、立ち竦む武田の兵を一人、また一人と突き倒しながら迫る。
咄嗟に何が起こっているのかわからず、虚を衝かれた武田の本陣全体が凍りついていた。
ただ一人、信玄だけが何かを察し、素早く鉄の軍扇を握り直す。
─―景虎、まことに、うぬが来たか!
咄嗟に眼を見開き、鞍上の行人包を睨む。
その騎馬武者を包む闘気は、明らかに異彩を放っている。
─―武田晴信、わが愛刀、小豆長光(あずきながみつ)の露にしてくれようぞ!
馬上の上杉政虎も、諏訪法性の眼庇(まびさし)の下に光る宿敵の両眼だけを見つめる。
己と武田の総大将の間に立ち竦んでいた最後の兵を突き倒し、上杉政虎はそのまま槍を手放す。
次の瞬間、わずかに愛駒の進路を左へと振り、眼にも止まらぬ疾さで佩刀(はいとう)を抜く。
その動作のひとつひとつが、信玄の眼に焼き付く。
まるで永遠に時が引き延ばされたように感じられた。
逸(はや)る上杉政虎。
動ぜぬ信玄。
その間に、互いを遮るものは何もない。
二人の闘気だけが宙空でぶつかり、陽炎(かげろう)の如く、そこにある大気を歪めているように見える。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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