よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 総大将の言葉が終わらぬうちに、またしても伝令が駆け込んでくる。
「御注進! 香坂隊の遣いにござりまする。われらは妻女山の敵陣が空であることをいち早く察し、単独で松代へと下り、海津城へ向かいましてござりまする。御大将は城の無事を確認した後、すぐに広瀬を渡り、ただいま敵の横腹を突くべく八幡原へ向かっておりまする」
 武田本陣に初めて届けられた朗報だった。
 険しい面持ちの側近たちに微かな安堵(あんど)の色が浮かぶ。
「昌信は敵が奇襲をすかし、海津城へ向かったと思うたのだな」
「はっ、さようにござりまする。もしも、敵が海津城へ向かわなかったとしても、御屋形様の退路を確保するため、松代へ下りると申されましてござりまする」
「うむ。大儀であった」
 信玄は腕組みをして大きく頷く。
 馬場隊が敵の別働隊を追って犀川へ向かったならば、飯富虎昌と真田幸隆の隊は越後勢の本隊を背後から突こうとしているに違いなかった。
 さらに香坂隊が海津城の方角から敵の側面を突き、崩しにかかろうとしている。ここに至り、やっと戦況を打開する光明が見え始めていた。
 ─―信繁たちの討死を聞いた時、この床几から少しでも腰を浮かしておれば、われらの軍勢は瓦解していたであろう。紙一重の決断ではあったが、これならば、まだ勝機はある。一命を賭してくれた者たちの奮闘を、決して無駄にはせぬ!
 信玄は眦を決し、近習の真田昌幸(まさゆき)に命じる。
「源五郎(げんごろう)、伝令を走らせよ! 前方で戦う者たちへ、われらの奇襲隊が戻ってきたと触れ廻るよう伝えよ!」 
「御意!」
 真田昌幸は厳しい表情で走り出す。
 それと入れ替わりに、また伝令が駆け込んでくる。今度は二人がほぼ同時に総大将の前で跪(ひざまず)いた。
 赤備の甲冑を身につけた者が先に声を発する。
「御注進! ただいま、われら飯富隊と真田殿の隊が戻り、敵の背後を突くべく奮闘中にござりまする!」
 その報告を聞き、保科正俊が「よし!」と掌に拳を打ちつける。
「重ねて御注進! 義信様よりの遣いにござりまする。新たなる越後勢の一隊が現れまして、われらと対しておりました敵勢に退陣を触れ回っておりまする!」
「まことか!?」
 原昌胤が聞く。
「はっ。間違いござりませぬ」
「敵も尻に火がつき、逃げ出し始めたか」
 陣馬奉行が言った通り、明らかに流れが変わっていた。
「もうひとつ申し上げたきことが……」
「何だ?」
「敵の騎馬隊と思しき数十騎が乱戦の間隙を縫い、こちらへ向かっているようにござりまする。その中に、月毛の馬と行人包の者がいると……」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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