よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 景持は満足げに頷(うなず)き、隣にいた伝令頭に声を掛ける。
「矢代(やしろ)へ回った騎馬隊からは、まだ何の知らせもないか?」
「はい、まだ、ありませぬ」
「さようか。武田勢は奇襲をすかされ、だいぶ戸惑っている。されど、冷静になれば、必ずや矢代へも軍勢を回してくるであろう。くれぐれも、連絡だけは怠るな」
「御意!」
「真の勝負は、敵が河を渡ってからだ」
 眦(まなじり)を決して甘粕景持が呟(つぶや)いた。
 もうひとつの渡し、矢代へも五百の騎馬隊を配してある。
 雨宮での渡河がうまくいかないと見れば、敵は遠回りになろうとも矢代の渡しへ兵を回し、横腹を突こうとするはずだった。
 その攻撃を阻止すべく、騎馬隊の精鋭が水際で待機していた。
 いずれも騎射(うまゆみ)の手練(てだれ)であり、馬上槍にも優れた猛者(もさ)が揃(そろ)っており、小勢でも相手が徒歩(かち)の足軽ならば充分に戦える。
 それでも渡河が防ぎきれなくなったならば、神速で退いて本隊と合流する手筈になっていた。
 そこから殿軍の真価が問われる。
 ─―いつまでも、水際で攻撃を捌(さば)けるとは思っておらぬ。敵がこちらの兵数を見切ったならば、必ずや力攻めに出てくる。その時、いかに戦いながら退くかがまことの勝負であろう。
『いかがいたすか、景持?』
 そんな上杉政虎の声が耳の奥でこだまする。
 ─―小勢であるがゆえ、構えも大仰にせず。あえて、虚勢を張らずに沈黙を貫き、相手を疑心へ誘い込む。御屋形様ならば、さように戦うはずだ。
 若き殿軍大将は全身に血の滾りを感じながら口唇を結ぶ。
 わずか一千五百の兵数を相手に悟らせないことが、戦いの鍵だった。
 一方、渡しから後退した武田奇襲隊は敵の陣容が読めず、苛立(いらだ)ちが募る。
「おのれ、越後の猿どもめ、かような処(ところ)に潜んでおったか!」
 飯富虎昌が顔を紅潮させて怒鳴る。
「渡河を狙うのが常道とはいえ、まさか鉄炮とは……。以前、景虎が根来衆と通じておるという風聞を耳にしたことがあったが、やはりまことのことであったか。どれほどの鉄炮が向こう岸から狙っているか判然としない以上、迂闊(うかつ)に動くことはできませぬ」
 真田幸隆が蓼(たで)の葉を嚙(か)んだような渋面で呟く。
「くそ、何もかもが忌々(いまいま)しいわ!」
 虎昌が吐き捨てる。
 皆の思いを代弁したような大将の言葉だった。
「一徳斎殿、何か策はないか?」
「ただいま、足軽を総出で竹を切らせておりまする。それを縄で括(くく)れば、盾の代わりになりまする。それを持たせた上で、もう一度、百足衆に渡河を敢行させましょう。さすれば、敵の構えも明らかになるのではありませぬか」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number