よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「して、先陣左翼はいかようになっておる?」
「……ま、まことに残念ながら、ほぼ全滅の状態にござりまする」
「さようか……」
 己の顔から血の気が引いていくのがはっきりとわかる。
 ─―菅助が討死し、左翼が全滅したということは、豊後守が討死した右翼も潰滅状態だと考えるべきであろう……。奇襲は完全に失敗し、敵に裏を搔かれ、開戦と同時に信じ難い劣勢に追い込まれている。
 一連の報告から、信玄はそのことを悟る。
 ─―典厩は、無事なのか!?
 そう考えた時、第二陣からの使番が現れた。
「御注進! 火急の件ゆえ、御無礼をお許しくださりませ!」
 阿部勝宝が叫びながら片膝をつく。
「典厩様、無念の御討死にござりまする!」
 その言葉が響いた途端、旗本の全体が凍りつく。
 指先ひとつ動かすこともできず、信玄は口唇を真一文字に結び、ただ瞑目(めいもく)する。
 総大将だけではなく、側近や奥近習たちも立ち竦み、ただ眼を見開いていた。誰もが正念を失い、我を忘れて硬直している。
 陣の全体から一瞬にして時の歩みが奪い取られる。先陣大将の討死は、それほど重い出来事だった。
 ─―この虚(うつ)ろを、何とか打ち破らねば……。
 総大将の護衛役を担っていた末弟の武田信廉(のぶかど)はそう思っていた。
 そのために渾身(こんしん)の力を振り絞り、強ばった口唇を動かそうとする。
「……あ、兄上」
 発することができたのは、わずかにそれだけだった。
 その声を聞き、信玄は驚くほどゆっくりと眼を開ける。
 それから、使番の顔を見つめて声を発した。
「勝宝、そなたは典厩の最期がどのような有様であったかを存じておるか?」
「……はい。初鹿野忠次から聞きましたところによりますれば、典厩様は先陣両翼の危機をお知りになった後、敵の奇妙な動きを止めるべく敵中に盾足軽たちを割りこませ、自ら越後の先陣大将、柿崎景家を倒すべく数十騎を引き連れて突撃なさったそうにござりまする。そこで柿崎景家と一騎打ちの状態となり、先に槍をつけて止(とど)めを刺す寸前にまで至っていたと。ところが……」
 阿倍勝宝が言葉に詰まる。
「ありのまま申せ」
「……ところが、その時、長尾景虎と思しき行人包の騎馬武者が駆け付け、横槍を入れてきたらしく、深手を負わせた柿崎景家を仕留めること叶(かな)わず、形勢が逆転してしまったとのこと……」
「さようであったか。敵の先陣大将と刺し違えたということでよいか?」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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