よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ─―いや、すでにここは死地なのかもしれぬ……。なにゆえかはわからぬが、景虎はわが策を看破していた。それが圧倒的な劣勢をもたらしている。まずは、その事実から受け止めなければならぬ……。
 信玄は眼を開ける。
「保科(ほしな)、第二陣の様子が心配だ。見てきてくれぬか」
「御意!」
 保科正俊(まさとし)が短く答える。
 護衛役の将は足裏の感触を確かめるように何度か大地に踵(かかと)を叩きつけた。そうやって己を落ち着かせてから、愛駒に跨(またが)って旗本を飛び出し、第二陣のところへ向かう。
 それからは、前線の伝令がひきもきらずに駆け込んでくるようになった。
 いずれの報も、自軍の劣勢を伝えるものである。
 信玄は眉ひとつ動かさずにそれを聞いていたが、内心は激しく動揺していた。
 ─―この戦、……すでに負けやもしれぬ。
 生まれて初めて戦場で抱く弱気が脳裡(のうり)をかすめていく。
 周囲にそれを悟られまいと、信玄はあえて床几(しょうぎ)に腰掛けたまま動こうとしない。
 そこへ、前線を検分に出た保科正俊が戻り、愛駒の背を飛び下りて信玄の前で片膝をつく。
「ただいま第二陣と越後勢が乱戦となっておりまする。敵の兵数は遥かに多く、善戦はしておりますが一進一退の戦況にござりまする。奇襲隊が戻って背後から挟撃いたす気配はござりませぬ。御屋形様、懼れながら申し上げまするが、どうか海津の城へお入りくださりますよう御願い申し上げまする」
 保科正俊が声を振り絞る。
 周囲にいた家臣たちの気持ちも、ほとんど同じだった。ここに留まれば、旗本までが危ないと誰もが思っていた。
 その危機は、信玄も肌で感じている。正直に吐露すれば、これまで一度も感じたことのない胸騒ぎさえ覚えていた。
 それは上田原の一戦の時以上の危機感だった。
 それでも、信玄は身動(みじろ)ぎもしない。
 ─―皆が申すように、陣払いをして海津城で態勢を立て直すのが、戦としては常道なのであろう。確かに、撤退の機を逸すれば、城での迎撃もままならぬ。動くならば、今かもしれぬ。
 風林火山の旗幟に倣(なら)うならば、「疾きこと、風の如し」。まさに、それを実行するべき時のように思える。
 黙り込む総大将に、家臣たちは息が詰まるような思いを抱いていた。
 その重圧に耐えかね、末弟の武田信廉が口を開く。
「……兄上、どうか、海津城へ」
 信玄の答えはない。
 総大将の脳裡で、めまぐるしく思案が巡る。

 
プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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