よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「何でござりましょう」
「景持からの伝令は、まだ来ておらぬか?」
「まだにござりまする。……まったく、困った奴じゃ。こまめに戦況を報告せよとあれほど申し渡しましたのに」
 宇佐美定満は渋い表情でぼやく。
「堪忍してやれ。おそらく、細かい戦況を報告いたす余裕もないのであろう」 
 そう言った政虎の顔が微かに笑ったように思える。
 ここに陣取ってから、初めて見る表情だった。
「御屋形様、この優勢のうちに勝敗を決しませねば、どうも背中がさわさわして落ち着きませぬ」
「もう、戦を手仕舞いすることを考えておるのか、宇佐美?」
「景持の殿軍は、たかだか一千五百。それが破られ、ほうほうのていで戻ってくるやも知れぬと思うと、どっしり構えていられるわけがありませぬ」
「ならば、そなたから物見を出して様子を摑めばよいではないか」
「では、御下知の通りに」
 宇佐美定満は配下の者に雨宮の物見を命じる。
 それから、再び、ぼやく。
「この老骨には、御屋形様が何をお待ちになられているのやら、さっぱり解せませぬ」
「何も待ってはおらぬ。わが戦が、まだ始まっておらぬだけのこと」
 上杉政虎はこともなげに答える。
 ─―わが戦が、まだ始まっておらぬ?……まったく摩訶(まか)不思議なことを仰せになる。何のことやら、なおさらわけがわからなくなったわ。
 老将は狐につままれたような面持ちで首を傾(かし)げた。
 それに構わず、上杉政虎は近習に命ずる。
「荒川(あらかわ)を呼べ」
「はっ」
 若武者は弾かれたように走り出し、しばらくして一人の武将を伴って戻ってくる。
「長実(ながざね)にござりまする」
 それは総大将と同じ戦装束を身に纏(まと)った荒川長実だった。
 上杉政虎が選んだ己の幻の一人である。
「荒川、そなたは敵の第二陣で一暴れしてこい」
「御意!」
「されど、敵中に深入りしてはならぬ。敵の第二陣にて、残党を追い回すだけでよい」
「承知いたしました」
 胴肩衣に行人包の荒川長実は一礼し、旗本を後にする。
 それから、葦毛の馬に跨り、乱戦の場へ向かった。
「頼経(よりつね)、盛信(もりのぶ)、ここへ」
 政虎は次に二人の馬廻衆を呼ぶ。
 平賀(ひらが)頼経と山吉(やまよし)盛信が総大将の前へ進み、片膝をつく。
「兼ねてからの申し合わせ通り、そなたらは武田晴信の居場所を探せ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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