第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「退陣の前に、ひと暴れ、してくれようぞ!」
政虎は左手で刀印を結び、眼を瞑(つぶ)って口中で陀羅尼(だらに)を連誦(れんしょう)する。
「……ナウマク、サマンダボダナン、ベイシラマンダヤ、ソワカ!」
毘沙門天王を勧請(かんじょう)する真言を終えて開眼する。
その瞳はうっすらと濡れ、武神の宿りを思わせる深遠な光が浮かんでいた。
「参る!」
総大将の一言を聞き、和田喜兵衛と宇野左馬之助の愛駒が弾かれたように駆け出す。
上杉政虎の放生月毛がそれに続き、周囲を守るように残りの馬廻衆、数十騎が土埃を巻き上げて動き出す。
眼前の八幡原では敵味方が入り乱れているが、開戦当初よりも遥かに奥へ武田勢を押し込んでいる。
そして、行く道々に転がっているのは、ほとんどが武田勢の骸(むくろ)だった。
龍蜷車懸の戦法が、いかに凄(すさ)まじかったかという証左である。
累々たる死を飛び越すようにして、上杉政虎の愛駒が速歩(はやあし)から駈歩(かけあし)へ転ずる。あっという間に、両軍乱戦の場へ近づいていた。
越後勢は武田の第二陣を押している。
武田義信は相当の苦戦を強いられていたが、副将を務める工藤(くどう)昌豊(まさとよ)と浅利(あさり)信種(のぶたね)が果敢に戦って何とか持ちこたえていた。
さらに越後勢の別の一団が、武田勢旗本の前備えを叩こうとしている。この前衛を守っていたのは、重臣の跡部(あとべ)信秋(のぶあき)と長坂(ながさか)光堅(こうけん)だった。
そこへ上杉政虎と同じ戦装束を身に纏った荒川長実が飛び込む。
方々から「景虎が来たぞ!」という悲鳴にも似た声が上がっていた。
闘志極まれば、敵中、一騎駆けも辞さぬ武神。上杉政虎にまつわる、そんな風聞はこの戦場でも生きていた。
それを最大限に利用するために放たれたのが、行人包の幻たちだった。
しかし、当の本人は乱戦に目もくれず、ひたすら愛駒を駆る。
その様、まさに人馬一体の旋風。
前方では、露払いの二騎が行手(ゆくて)の邪魔になる足軽だけを突き倒してゆく。たった数十騎で旗指物も差さずに疾駆する一団は、両軍どちらにとっても一見しただけでは敵なのか味方なのかわからない。この戦場(いくさば)では、実に奇妙な存在だった。
敵の前備えをやり過ごした上杉政虎の視界に、風に翻る二つの毘の一文字が飛び込んでくる。
先行した平賀頼経と山吉盛信が、敵の総大将を見つけたという合図だった。
「行け、放生(ほうしょう)!」
愛駒に声をかけ、政虎は槍の石突きで尻を叩く。
放生月毛はぐんと速度を増し、前の二頭に並びかける。それに遅れまいと、和田喜兵衛と宇野左馬之助も全力で馬を煽(あお)った。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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